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青柳(中世)


 鎌倉期から見える地名。常陸国那珂東郡のうち。弘安田文に「青柳十丁」と見える(税所文書/県史料中世Ⅰ)。常陸大掾伝記断簡写には「馬場ハ横倉嫡々タリ,青柳・袴塚・箕河・吉沼・河崎・枝河,此等ハ馬場ノ名也」とある(吉田神社文書/県史料中世Ⅱ)。当地の郷地頭は馬場資幹の次男泰幹(青柳次郎)と推定される(水戸市史)。興国元年と推定される6月15日の沙弥浄永(大掾高幹)軍忠状写に「さたけ勢よせきたり候時,あをやきのしやうにて,ミのしまのなかつかさの子息十郎太郎さいせんにうちしに候」とある(石川氏文書/県史料中世Ⅱ)。あるいは,青柳荘とも称されたか。同文書は前年に常陸国に入った南朝方の北畠顕信の東北下向に際し,大掾高幹が顕信を護送し当地に至り,これを阻止しようとする佐竹氏と衝突,その時に簑島中務の子息十郎太郎が討死にしたことを大掾高幹が府中にいる大掾詮国に報じたもの。水戸地方が江戸氏の支配下に置かれると,江戸氏の帰依した真言宗寺院が当地に創建され,願行流血脈によると六蔵寺開山の宥覚の弟子宥如が大聖寺を開いた(小松寺文書/県史料中世Ⅱ)。「和光院過去帳」によって長福寺・浄泉坊などの存在も知られる(水戸市史)。佐竹氏が水戸地方に進出すると,天正年間に佐竹氏家臣青柳隼人正の居所の青柳館が長福寺あたりに建てられたという(同前)。文禄5年蔵納帳(秋田県立秋田図書館蔵)によると,当地は333石8斗5升を算出し,川井大膳に預け置かれている。当地は那珂川の北岸にあり,水戸の台地へ入る交通の要所で,天正18年に佐竹義宣が水戸城を攻略した時には太田より後台を経て当地で渡河し神生平を通り水戸城に至っている。佐竹氏の家臣大和田重清が城下に屋敷を建てるために材料を太田から運搬し水戸に運び込んだが,その際の「水戸城下屋敷普請日誌」には「青柳ヨリ,カヤハコブ・駄チン十五文,船頭ニ十五文」,などとある(水戸市史)。当地は重要な渡船場であった。文禄3年の太閤検地を機に那珂郡に属す。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7271095