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江戸崎村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。常陸国信太郡のうち。はじめ佐竹氏領,慶長7年幕府領,同8年大名青山忠俊領,同15年から元和8年までは古渡藩領,元禄年間は下総関宿藩・旗本久永氏・同丹羽氏の相給,幕末期は関宿藩領。村高は,「元禄郷帳」2,125石余,「天保郷帳」2,217石余。小野川の河口に近く,当時は上流に羽賀沼,下流に榎ケ浦を抱えた霞ケ浦南岸の港として知られていた。現在地が判明する河岸だけでも,管天寺河岸・顕声寺河岸・不動院河岸・和右衛門河岸・華蔵院河岸・鍋屋河岸などがあり,霞ケ浦・利根川を通り江戸との水上交通が盛んであった。これらの河岸から江戸に向けて出荷されたであろう特産品の1つに醤油がある。文政7年の記録には,関東八組の造醤油仲間109名の中に,江戸崎組4名が見える。天保11年の「醤油番付」では,前頭筆頭に江戸崎の辻田忠兵衛が見える。嘉永年間発行の番付では,小結に江戸崎の辻田忠兵衛,前頭に君山の井筒屋藤右衛門と鳩崎の関口八兵衛の名が見え,ことに辻田忠兵衛は,番付中央の行司欄にも差添役の1人として名を連ねている。近江商人の系譜を引く商家が軒を並べていたと伝えるが,当時の様子を伝える古文書などが近世を通じ何度か見舞われた大火によって焼失したといわれる。とりわけ,村の大半を焼失させてしまった「大仏火事」によって村の様子は一変したとも伝える。文化面では,江戸中期に盛んになった江戸の狂歌が水上交通の便を得て常陸にも入ってくるが,その二大拠点が,江戸崎の緑樹園元有の花王連と霞ケ浦の対岸にあたる麻生の国字垣歌志久の国字垣連の人々であった。元有は通称を小林平七郎といい,江戸の網町にも支店を有した釜屋を名乗る商人であったが,江戸で人気のあった狂歌師・六樹園飯盛に学んで狂歌壇に名を残し,文久元年12月8日に没した人で,町内の瑞祥院に墓がある。現在,元有の歌として360余首が伝えられている。神社は鹿島神社・愛宕神社・琴平神社・浅間神社など。鹿島神社は,元亀元年江戸崎城主土岐治英が城内守護神として,鹿島神宮の分霊を鎮斎し,祠田および金銀などを奉納して祭典修理にあてたといわれる。のち明治40年に第六天社・山野神社・諏訪神社・八幡神社・竜蔵神社・天満神社・白山神社などを合祀。寺院は,曹洞宗管天寺・浄土宗大念寺・天台宗不動院・臨済宗妙心寺派瑞祥院・時宗顕声寺。管天寺は延徳2年土岐景成の開基で,開山は周道和尚と伝える。現在の鹿島神社の境内が旧域であったが,のち現在地に移った。同寺には土岐氏累代の墳墓・木像・位牌などがある。大念寺は幕府の尊信が篤く,寺門を造営して関東十八檀林随一とされた。朝廷との関係も深く,代々の住持は正三位に叙せられた。墓地には,永禄年間から元亀年間の剣客諸岡逸羽斎(一羽斎),幕末期の画家岡崎邦彦,美濃の斎藤道意・道白らの塚がある。不動院本堂の地蔵尊は「とげぬき地蔵」として名が高く,祭日には特に女性の参詣者が多い。瑞祥院は,享保3年の大火で建物は烏有に帰した。本堂は碧門法師の時に建設された。境内には大師堂,狩野興信作の達磨瓢箪池(放生池)などがあり,池辺に緑樹園の句碑「魚と水中に枝垂る柳かな」がある。また境内琴平神社の裏に羅漢山があり石仏五百羅漢像がある。昔から江戸崎八景と称する吹上の秋月,江崎山の晩鐘,洲崎の晴嵐,医王山の暮雪,浜河岸の帰帆,羅漢山の夕照,高田の落雁,引舟の夜雨がある。明治5年天王村を分村し,同19年再び合併。明治8年茨城県,同11年信太郡に所属。明治6年瑞祥院を仮校舎として公立学校を設立。同19年現在地に校舎を新築し,江戸崎尋常小学校となる。明治5年郵便局が本宿に開設された。同9年土浦警察江戸崎分署が置かれ,同19年江戸崎警察署に昇格。明治11年不動院付近に信太河内郡役所設置。同21年治安裁判所出張所を切通に設置。明治22年江戸崎町の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7271889