100辞書・辞典一括検索

JLogos

51

太田村(近世)


 江戸期~明治14年の村名。常陸国久慈郡のうち。はじめ佐竹氏領,のち慶長14年からは水戸藩領。村高は,寛永12年「水戸領郷高帳」2,003石余(ほか新田55石余),「元禄郷帳」2,464石余,「天保郷帳」2,624石余,「旧高簿」2,257石余。「水府志料」によれば,大里組に属し,戸数626,村の規模は東西約12町50間・南北約23町8間で,水戸から棚倉(福島県)への往来(棚倉街道)駅所。「新編常陸」では天保13年の検地で田畠196町6反余,分米1,243石余,社寺は,若宮八幡・稲荷明神,真言宗梅照院・浄土宗法然寺・日蓮宗蓮華寺・時宗浄光寺(朱印40石)・同遍照寺。江戸前期には一時当村に郡役所が置かれ,宝永4年~享和年間には水戸藩付家老中山氏が,城跡を太田御殿と称し,当地方を知行した(太田盛衰記)。城跡は水戸藩主の墓参の宿所ともされ,藩の稗蔵も設置された。さらに土塁を隔てた搦手には天保年間頃に郷校益習館がつくられ,幕末尊攘運動の拠点となった(同前)。「水府志料」によると滝の井・猿カ井・十王井・下井・金井・観蔵井・紫岸水の七井があって,観蔵井は一名御前水,または御茶水ともいい,むかし水戸藩主の茶水となったためそのように称したという。また同書に「はるはると紫岸清水をくみにきて,なを鮫川の水をくむなり」の作者不詳の古歌を紹介している。米穀・烟草・紙・蒟蒻など,北郡の物産の市場で(地名辞書),商業の中心地。木前の地には寛永通宝の鉄銭2種を鋳出した鋳銭座が置かれた。しかし貨幣の暴落を招いたことから明和7年に付近の農民などが静明神の神輿をかつぎ出して鋳銭座を襲い,「今江戸」と称された当地も焦土となり,同座も再開後まもなく廃されたという(太田盛衰記)。当地で製される太田団扇(雪村団扇ともいう)は有名。明治4年茨城県,同11年久慈郡に所属。明治14年太田町となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7272061