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霞ケ浦A


砂州によって海に接していた霞ケ浦が,常陸利根川によって海と通ずるようになったのは寛永15年頃といわれ,江戸初期に始まる利根川東遷事業などの河川改修によって淡水化されて霞ケ浦は湖となった(玉里村史)。寛文3年相馬郡押付村から香取郡上須田村の30kmを新たに開削して利根川の水を霞ケ浦に流す工事が始められ,足かけ5年で谷原新川(現新利根川)が開削されたが,十分な成果を得られず2年で水口が締切られた(茨城開発の歩み)。この工事には通船の便と洪水防止などとともに霞ケ浦の陸地化のねらいもあったといわれる(同前)。「水府志料」によれば,香澄浦と書かれ,行方【なめがた】・新治【にいはり】郡の間に位置する方を西浦とよび,鹿島郡に臨む方を北浦というとある。同書には,南の上戸・牛堀から北の小川・玉里に至るまで十余里,東西は広狭はあるが2~3里,あるいは1里を下らないと規模を記している。また,すでに海魚・塩焼などはないが,田間には腐貝が多く,土地の人々は海と称して湖といわず,産物として鯉・鮒・鱣・蝦などの類をあげている。霞ケ浦の漁業で,近世に重要な役割を果たした湖水沿岸の漁村からなる四十八津の浦方組合は,江戸初期にはすでに成立していたという(県史料近世社会経済編Ⅱ)。また,南津頭として古渡村,北津頭として玉造村が江戸初期には定まっていたと思われる(土浦市史)。海夫の拠点であった津はそれぞれに自治的な組織となり,複数の津が集まって自治組織を形成した。慶安3年の「霞ケ浦四十八津掟書」では,霞ケ浦では従来通り入会で漁猟を行い,4月~11月の鯉の漁獲の禁止,六ツ引網などの比較的大量に捕獲できる網や新規漁法・漁具を使用する猟船は,網・船とも没収し,捕えた者の徳分とすること,惣津の害となる企ての取締り,平常の漁でも目詰りの網などの使用禁止,幕府により留川とされている箕輪田の岸である浮嶋・冨田・麻生・嶋並・橋数・今宿の6か村の奪引【ばいびき】は12月~3月以外禁止,惣津の寄合は毎年10月20日で,出席しない時は漁を末代まで禁ずるなどの条々を定め,南・北両津頭ほか43か村が連判している(土浦市史)。霞ケ浦の漁業は早くから原則的には入会で,浦方組合によって自治的に管理・運営がなされていた。さらにこの慶安3年の掟書はのちの享保11年・寛保元年・文化12年の議定に継承され,江戸期を通して霞ケ浦漁業の原則を定めたものといえる。享保11年に作成された「霞ケ浦浦方議定書」の条文中にも,「慶安寅之御証文之通」に守ることとある(県史料近代社会経済編Ⅱ)。享保11年の議定書では,流網・あぐり網・六引網・広打網や付網をした地引網・大徳網や新規の漁具を禁じており,さきの掟書をさらに明確化するとともに,難船に助け船を出すことや流船の管理を新たに定め,留川を2か所としている。入会の原則については,元禄16年「霞ケ浦浦方作法覚書」の中でも,漁については箕輪田と水戸藩の2か所の留川以外は残らず入会であると述べて確保に努めているが,一方では留川2か所の除外を認めている(同前)。箕輪田の留川は,寛永年間以前東南部に幕府が設置したもので,水戸藩の留川は寛永2年湖北の玉里に設置されたものである。現在の玉里村沿岸の恋瀬川が注ぐ入江を留川とした水戸藩では藩財政の一助となり,収益ははじめの11年間で2,000両余で,はじめ11年間は直網,寛永13~17年は入札運上,同18年~天和2年は再び直網,天和3年から運上制となり,寛政2年までは「増言礼運上」の形で運営されていた。宝永5・6年の2年間は,宝永改革によって御川守制が中止されることもあったが,留川として明治2年まで水戸藩の管理下にあったという(玉里御留川文書/玉里村史)。なお四十八津は玉里の留川に対して執拗に抵抗を続け,容認したのは寛永2年から約60年ほど下った貞享年間である。湖面のほかに北浦や利根川に通じる与助川や十三数川を当初は入会とされていたが,重要な魚道であった十三数川が延宝5年に留川とされ,元禄5年にはやはり重要な魚道である与助川に対する運上請負(留川)に対して,十三数川が留川とされて村々が困っていることをあげるなどして反対し,先例通りに入会の漁場とするよう願い出ている(県史料近世社会経済編Ⅱ)。先の元禄16年の覚書や享保11年の議定書などでも,四十八津箕輪田・玉里の2か所は留川として承認しているものの,それ以外はすべて入会とし,重要な魚道である十三数川が留川であることには触れていない。文政5年には箕輪田留川の請負人下総国香取郡上須田村の又兵衛が留川の範囲について麻生村ほか22か村を相手に出訴したのに対し,麻生村名主が引替願書を作成し,留川の拡大に抵抗を示している(県史料近世社会経済編Ⅱ)。四十八津の浦方組合を構成した村々についてみると,元禄16年の覚書によれば,「古来より霞浦四拾八津其外小津共百ケ津」あるという(同前)。同書に連判している村々は,南津頭古渡村,北津頭玉造村,組頭・小津頭として五町田村・上須田村・崎浜村,組頭には木原村・高掛村・麻生村・浮嶋村・田代村・有賀村,小津頭として鳩崎村・牛堀村・飯出村・八筋川村・柏崎村,三ケ津頭として潮来村,このほか南に大須賀・大塚・山門・八井田・牛込・根尾・大山・端山・大谷・高崎・今宿・橋数・嶋沼・富田・上戸・延方・高崎・高浜・野中・松川・三次・馬渡・大嶋・三嶋・甥嶋・下須田・天田・須賀津・押堀・水神・阿波崎・上之嶋・中杭・志田古渡・羽生・石川・八木・高賀須・志戸崎・手賀・八目・房中・赤塚・田宿・川尻・田・平川・沖宿・舟子・嶋津・掛馬・大室・狭戸・青宿・大岩田・高須・八木蒔・羽生・沖須・城之内・大井戸の78か村(北方44・南方34)が見え,また享保11年の議定書には北方44・南方31の75か村が連判している(同前)。四十八津とはいっても,江戸中期には70を超える浦方によって南北津頭・組頭・小津頭(組頭・小津頭の兼任の場合もある)を設けて運営されていたことが知られる。なお,元禄16年の覚書によると,争論に際して古来からの「霞浦津々之大絵図」によって裁許がなされており,四十八津が絵図を所持していたことも知られる。四十八津によって江戸期に霞ケ浦で認められていた漁法は,付網をつけない地引網・大徳網・網代・ばい引網などを主とし,ほかに定置的な小漁具を用いる笹浸・於朶・筌・竹筩・簀立や竿釣・縄釣などであった(同前)。大徳網は,網代はのほか鯉・鮒・鱸・鱭・鯎など,笹浸は鰕・鰻,於朶は鯉・鮒,筌・竹筩は鰻,簀立は鯉・鮒などをとるために使用された。霞ケ浦での地引網は鹿島灘の鰯地引網ほど大規模なものではなく(同前),大徳網は船2艘で引き子20人程が左右に分かれて網を引く漁法で,江戸期頃坂村の山口又助が考案し,のち改良が加えられたと伝える(出島村史)。漁獲された魚は,水産加工が始まったといわれる幕末頃まで生魚か干魚として販売され,ワカサギも生魚あるいは未加工のまま干して,肥料として売られていたという(土浦市史)。さきの文政5年の引替願書によれば,麻生村は村高2,000石余で,岡方6組・浜方4組があり,浜方は田畑を所持せず,「朝暮日夜,海上を住家」として稼ぎをしており,漁業に支障があれば数百人の漁師・妻子一同に路頭に迷うと浦方の様子を述べている。そして,箕輪田は先年からおよそ6~7尺も埋まり,深い所で3~4尺,浅い所では1~2尺位といわれる程になって,魚も影を隠せないため寄魚も減り不漁が続いていると窮状を訴えている。江戸中期以降は留川の問題のほかに,当浦の水行の問題が漁業を圧迫するようになる。大徳網・網代の数が増え様々な小漁具が利用されるようになると濫獲が進み,次第に漁獲量は頭うちになった。そのうえ安永6年には沿岸農民から湖水の排水悪化により田畑の作物が水腐れになるため,堀浚え普請の請求が出された。この排水悪化の原因に定置漁具・漁網の敷設があげられている。これ以降,幕府の水行直が霞ケ浦落口の村々の漁業を規制するようになった(県史料近世社会経済編Ⅱ)。安永6年の訴訟により川浚いと堀割普請が実施されるとともに漁具についても次第に規制が強化されることとなった(同前)。霞ケ浦の洪水を避けるため同9年五ケ村新田の名主が沿岸76か村を代表して三嶋・大嶋地先の州浚いを幕府に願い出,寛政3年には沿岸181か村の総代として土浦町の名主が与助川などの川幅を広げ,鯰川を新たに掘り割って成果を得た(出島村史)。また,文化13年には香取郡17か村の総代下須田村と伊佐部村の名主が,水腐田を救うため安永9年と同様に州浚い・川幅拡幅工事を霞ケ浦周辺107か村の石高割の自普請で行うことを企画したが,地元17か村以外の反対にあうなど曲折をたどり,7年を経て州浚い・定浚い人足御免の条件を得た(同前)。天保2年正月漁業への水行直による規制強化に対する永山村村役人の上申書をみると,同村は田方の用水が乏しいにもかかわらず,寛永年間の検地以後年々高免になってゆくのも湖水付漁場があるためと申し伝え,網代については先に水行直の検分以後3分の1に減らされ,なお今後はどうなるかと村内一同心配している。これまで「百姓潰人」があっても漁場の株があれば養子相続もあり,漁場のことは村内の浮沈にかかわるといい,諸人馬の費用なども漁場という「益場」がなければ,「所持高持張かたきもの」も出ると述べ,「漁場之外ニは壱銭益場」もないと訴えている(県史料近世社会経済編Ⅱ)。だが,同年4月には人足のべ4万5,000人余を投入した幕府の大規模な水行直普請が開始され,同年6月末に完成し,霞ケ浦落口107か村は葭・蒲の刈払いを義務づけられるとともに,打網・引網以外の定置漁具・漁網の使用が禁じられ,永山村など常陸利根川落口の浦方は強い打撃を受けた(同前)。その後,天保12年潮来・永山・上戸・西大須賀の4か村では禁じられていた鹿朶巻・笹浸などが仕掛けられていたことが代官手代の水行検分廻村で発覚し,当事者・村役人が過料銭などの処分を受けている(同前)。このことは浦方漁民が幕府の禁制下においても,その禁漁を続けていたことを示している。慶安3年の掟書以来,入会利用や新規漁具の使用禁止などを申し合わせていた浦方組合は,元禄年間以前に留川の設置を阻止し得なかったように,その機能を十分に発揮したとはいい難い。享保11年・寛保元年(土浦市史)の議定書に,津々への廻状が「遅滞」していることが見え,議定書自体が慶安3年の掟書の再確認と実効の強化の意味を有していたと思われる。実際に享保11年の議定書は条々の後に,「津々の会合」が緩みを来したために作成されたことを物語っている。また,享保年間を境に,村ごとに地先の水面を運上場として,村ぎめの漁場を定めて各々の領主に運上金を納める傾向があった(土浦市史)。そして,留川の運上の願人が浦方自体から出ることもしばしばあったり,村前の漁場を村民が利用せず,請負人に操業させて請負金を村の収入とする傾向も強まっていった(県史料近世社会経済編Ⅱ)。さらに江戸中期以降農業生産のため,水行障りの漁業排除の動きによって流水路筋の浦方を圧迫する事態を招いたことから浦方の村々における利害の対立を強くすることも増え,禁漁の操業が続出するなど,浦方組合は統制力を失っていった。浦方を構成していた各村とその漁業も幕末までに大きく変化した(同前)。一方,江戸期の霞ケ浦は漁業のほか,水上交通に果たした役割も大きかった。寛文10年河村瑞賢によって東廻り航路が開かれたのちも,那珂湊から涸沼【ひぬま】経由の江戸回漕路は「内川廻り」といわれ,海難をさけるため奥州諸藩にとって重要な役割を果たしていた。水戸藩をはじめとする奥州方面からの廻船は,那珂湊から涸沼川をさかのぼって涸沼南岸の海老沢や網掛に入り,そこで陸揚げされた荷物は北浦に注ぐ巴川の下吉影河岸や霞ケ浦北岸の小川・高浜・玉造の各河岸へ陸送され,霞ケ浦を高瀬船で下って潮来へ入り,利根川をさかのぼって江戸川経由で江戸へ入っている。小川河岸は霞ケ浦北端に注ぐ園部川下流左岸にあった河岸で,北浦北岸の鉾田【ほこた】河岸とともに内陸水運上の中継地として重要で,水戸藩の運送方役所が置かれていたが,文化年間霞ケ浦南端の上戸に移されている。小川に設けられた水戸藩の御用河岸には13隻の藩の持船があり,「水」に◯の旗印を揚げて御料米を運んでいた。霞ケ浦西岸に流入する桜川・川口川・田町川沿いにある土浦城下にも各河岸が栄え,桜川筋には,大町・佐野子・飯田・虫掛・田土部・君嶋・真鍋,川口川には川口河岸,田町川には田町・木余田・石田などの各河岸があった。霞ケ浦を通る船の寄航地となった川尻・崎浜・牛渡・有河などには問屋が栄え,水戸藩の年貢米は田伏・柏崎から小川河岸へ運ばれ,幕府領・旗本知行地では柏崎・有河などの河岸を利用し江戸へ廻送した(出島村史)。また柿岡盆地の産物は恋瀬川経由,笠間盆地の産物は駄送で高浜に集められ,霞ケ浦を経て江戸へ運ばれた(日本地誌)。しかし,享保11年の議定書に難風に遭った船の救助が加えられているように,霞ケ浦は通船にはかなりの危険も伴っていたようである。特に中央部の三服沖とよばれるところは風が強く,小鬢3本がゆれる微風でも船出を見合わせたという。「利根川図志」には,霞ケ浦の入口にあたる牛堀河岸に,当浦が「渡り難き海」で,滞船して風を待ったために出入の船が多く集まったことが記されている。水運の中心は明治20年代まで高瀬船で,霞ヶ浦町沿岸から田伏を境に高浜・土浦へ物資を輸送する船は「はや舟」と称されて,幕末期から重宝がられたという(出島村史続編)。霞ケ浦沿岸各河岸の盛況は,明治31年日本鉄道海岸線(現国鉄常磐線)が,福島県平まで開通するまで続いたといわれる。<霞ケ浦Bに続く>




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7272655