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佐倉郷(中世)


 南北朝期~室町期に見える郷名。常陸国信太【しだ】荘のうち。建武2年8月15日の某安堵状に,「常陸国信太庄下条佐倉郷権現堂免田弐反坊敷畠等事,僧祐海所,右免田畠等者,任去正和三年三月十八日寄進状之旨,祐海令領掌彼田畠等,可致公私御祈祷精誠之状如件」と見え,これ以前すでに鎌倉末期の正和3年に某が寄進状を与えていた。祐海は次いで貞和3年10月日付で某から佐倉郷内の浦渡にあった権現堂の別当職に補任されている。また,この史料の端裏には,「播州時代給主・小見野六郎」と見え,当時は高播磨守師冬の支配下で,武蔵国の出身と思われる小見野六郎が給主となっていた。権現堂に関しては,永徳2年10月日の円了房長慈置文に,「信太荘佐倉郷権現堂住持事,律僧円了房之後世者,可為住持慈空者也」と見え,長慈は住持職を将来,慈空に譲ることを約しており,権現堂は祐海から長慈そして慈空と伝えられた。現在,古渡の小字権現堂・権現台・権現下が遺称地と考えられる。貞和4年3月25日付で有道盛胤が「佐倉郷浦渡宿草切年貢壱貫六百文」を無縁談所の宗覚に寄進している。また,佐倉の浦渡宿の能化所に,観応3年4月8日付で紀親経(近常)が,「合田四段〈浜田二段,腰巻田一段,蒲縄了心房内一段〉」および「合銭壱貫伍百文」を寄進している。応安6年4月21日の覚叡譲状に「信太荘佐倉浦渡円密院田畠譲状事,合田壱町四段・畠一所〈二段かはなは,二段はまた,池下,こしまきた,合一町〉」と見え,先に見える能化所が円密院へと変化し,それに付随する田畠も増加し,覚叡から三位阿闍梨良尊へと譲られている。また,同年8月10日の祈祷代阿闍梨什慶の置文には,「常州信太庄下条佐倉郷内浦津毘沙門堂免田事」と見え,郷内の毘沙門堂に5反の田が付随しており,うち2反が談義所分とされていた。さらに,永和3年正月11日付で元綱が円密院に,「きたちやう田一丁」を寄進している。ところが,至徳3年2月25日に浦渡宿の火災があり円密院に関する文書が紛失してしまったようで,嘉慶元年6月1日付で信太荘下条内の祈祷衆頭の権律師覚祐と阿闍梨祐親が連署で文書紛失に関する証文を出しており,応永5年10月27日付で良尊が孝尊に与えた譲状にもその事が見え,応永18年9月6日には,信太荘総政所の土岐秀成が4反の円密院当知行分に対する紛失状を発給している。この文書紛失後の円密院坊敷は4反に固定したようで,応永5年の良尊譲状には,「右彼寺田四反内坪者,苽共連田・腰巻田・横田・池下田」または,「合田陸段,此内,毘沙門堂免内二反,并屋敷一宇」と見えるが,応永17年3月日の孝尊が勝尊に与えた譲状には,「浜田二段,腰巻田壱段,蒲縄了心房内壱段」と見え,観応3年の寄進状の内容に回帰している。正長3年7月25日付でも再び孝尊は勝尊に譲状を与えているが,4反と記されるのみで場所は明記されていない。おそらく,応永17年の譲状以後は内容が定着していったためであろう。浜田・越巻・池下・横田が佐倉の小字として確認できる。一方,毘沙門堂別当職に関して応永25年に大方郷で盗賊をした者が当時の別当の縁者であったので別当が逐電してしまうという事件が起きている。その後任に「佐倉郷小童幸明丸」が,応永25年9月晦日の庄主玄航渡状および応永25年11月19日の土岐原憲秀補任状によって,田地2反と坊敷などを含め別当職になっている。また,貞和5年12月16日の平某が茅崎四郎左衛門尉にあてた施行状に,「僧浄意申常陸国信太庄下条佐倉郷阿弥陀堂住持職并田畠等事」と見える。佐倉の小字堂地・堂場様などが阿弥陀堂の遺称地か。さらに,応安2年6月17日の山内道政寄進状に,「常州信太庄下条佐倉郷内北野天神宮田事,合田壱段者」と見え,当郷は山内道政の支配下にあり,郷内の走下という坪にある田地1反が北野天神宮に寄進されている(円密院文書/県史料中世Ⅰ)。佐倉の小字天神・天神久保などが遺称地か。ところで,南北朝期,当地方は戦乱の渦中におかれ,当郷の人々は南朝方として行動したようで,康永3年2月日の別府幸実軍忠状に,「同十七日,屋代彦七郎信経同道仕て,駆向于信太庄之処,佐倉城凶徒等令没落候訖」と見え暦応4年9月に高師冬の軍勢が信太荘に侵入し,屋代信経の案内を得て,同17日には佐倉城をはじめ東条,亀谷の諸城を陥落させている(集古文書/大日料6-6)。同年のものと思われる北畠親房御教書にも「信太庄佐倉楯,河内郡馴馬楯等引退候き」と見える(結城文書/大日料6-6)。この佐倉城(楯)跡は,現在,宅地・耕地・山林などになっており,空濠・土塁の一部も残り,殿屋敷・場々・兵虫・城ノ内・西ノ内・楯ノ台などの小字が示すように,谷津の入り組んだ佐倉の台地上を巧みに利用した城と思われる。佐倉城は信太小太郎の居城であったとの伝承も残る(日本城郭大系)。その後,当郷は,山内上杉氏の代官として信太荘に入部してきた土岐原氏の支配下におかれた。檀那門跡相承資并恵心流相承次第の宝徳4年3月19日付の弘尊注記に,「阿波安穏寺亮栄法印……西ハ志々塚,北ハ古渡・佐倉,東ハ島須田,南ハヲシズナ・マガ淵迄,旦那ヲ取リ」と見える(逢善寺文書/県史料中世Ⅰ)。円密院の寺院としての形成期に活躍した什覚や覚叡も逢善寺と深いかかわりを有していたが,室町期の宝徳頃には,阿波の安穏寺亮栄法印の旦那となる者もいた。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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