宍倉村(近世)

江戸期~明治22年の村名。常陸国新治郡のうち。完倉村とも書く(元禄郷帳・天保郷帳)。はじめ佐竹氏領,元禄年間・幕末期ともに水戸藩領。村高は,寛永12年「水戸領郷高帳」896石余(ほか新田204石余),「元禄郷帳」1,262石余,金川新田村として62石余,上新田村として172石余,「天保郷帳」では古くは完倉村・金川新田村2か村とあり1,398石余,上新田として190石余,「旧高簿」1,758石余,「旧高旧領」1,797石余。助郷は加助郷。元禄年間の「常陸国絵図」によると南野に一里塚が設置されていた(出島村史)。元文元年西成井に猪鹿の被害を防ぐため猪鹿土手を構築したが,猪鹿の被害はなくならず,享和2年の「猟師仲摩取極帳」によると当村の嘉七・吉蔵ら5人が協力体制をとって見回るなどの対策を講じた(岡田家文書/出島村史)。元治元年藤田小四郎と安食村出身の竹内百太郎,当村出身の岩谷敬一郎が潮来【いたこ】遊郭において天狗党挙兵の相談をし,同年筑波山で150余人が決起した。岩谷は天狗党の劣勢を知ると北海道に活路を見いだすべく北進するが,諸生党の追撃を受け,1人で潜行し静岡において機を待ち明治政府樹立とともに宮内省に入部,ほかに捕鯨会社開国社を設立,篤学院(東京)を創設するなどした(出島村史)。明治8年茨城県,同11年新治郡に所属。明治8年宍倉小学校開設。同14年創設された樹芸社が拝借した官有原野の中に当村も含まれた(同前)。明治22年志士庫村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7273992 |





