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関郡(中世)


常陸国の郡名東・南は下妻荘,北は伊佐郡,西は下総国結城郡に接する古代の新治【にいはり】郡は平安末期までに東郡・中郡・西郡・小栗御厨に四分され,このうち西郡はさらに南条・北条に分割される当郡は西郡南条にあたる康治2年8月19日の太政官牒案に「壱処〈字村田庄〉在常陸国筑波郡内 四至 常安保〈東限筑波河流 西限西郡南条境 南限下総国境 北限大墓〉」と見え,村田荘内の常安保は西郡南条と西の境が接していた(安楽寿院古文書/平遺2519)すでに康治年間には西郡が南条と北条に分割されている「吉記」承安4年3月14日条に「下津真庄」が見え,康治年間~承安年間に西郡南条の東部は下妻荘として立荘され,西郡南条の残りの中西部域が関郡となる当郡は平安末期から関氏の本領であった「吾妻鏡」養和元年閏2月20日条には関次郎政平の名が見えるまた,同書の宝治2年6月15日条には「十五日辛夘,酉剋,常陸国関郡仁木奈利郷白雪降」と見える弘安田文に「〈関〉西郡南条百八丁五段三百歩」とあり(税所文書/県史料中世Ⅰ),嘉元田文にも「一,西郡南条 百八丁五反三百歩」と見え(所三男氏所蔵文書),西郡南条として同数値で記載されている嘉元4年6月12日の永嘉門院御使申状并昭慶門院御領目録案に蓮花心院領として「常陸国関庄」が見える(竹内文平氏所蔵文書/栃木県史)関荘は蓮花心院を領家,昭慶門院を本家とする荘園で,関郡が関荘として立荘されたものかしかし,これ以外に関荘に関する史料を見いだせず,詳細は不明鎌倉期に当郡は関氏の支配下に置かれていたと推定されるが,南北朝期には関城をめぐって両勢力が抗争する「梅松論」によれば,建武2年12月結城朝祐が足利尊氏に従い,箱根・竹の下で新田義貞と戦い,その戦功により「常陸の関の郡」を充行われた南北朝期には当郡内の関城が大宝城・伊佐城などとともに常陸国の南朝方の拠点となり,北朝方と抗争を展開する建武4年8月日の野本鶴寿丸軍忠状によれば,南朝勢が小山城(栃木県)を攻め,北朝勢がこれに反発して同年7月8日関城を攻撃した(熊谷家文書/結城市史)この時,野本鶴寿丸の代官は金崎右衛門五郎などとともに絹河を越えて「関郡盤若原并城際」に突入し戦功をあげたという建武5年9月北畠親房が東条荘に漂着し,はじめ神宮寺城・阿波崎城に入ったが,北朝勢に攻められて小田城に逃れたその後,暦応4年11月小田治久が北朝方に通じたため,親房は小田城から関城に移ったこののち,高師冬は関・大宝城に繰り返し攻撃をかける康永2年11月関城・大宝城は落城,関城の城主関宗祐父子は戦死,親房は脱出しやがて吉野に逃れた康永2年12月日の嶋津佐忠着到状には「関城大手攻口警固諏方崎令在陣,至于関・大宝等城没落之期,次伊佐城御発向之間,及降参之時,所令致軍忠也」と見える(嶋津文書/栃木県史)康永3年正月日の税所朝治軍忠状にも同様な記載が見える(税所文書/県史料中世Ⅰ)関城の落城により,平安末期以来当地を支配下においていた関氏は没落し,当郡は結城氏の支配下となった永享6年12月19日結城氏朝は「ひたちの国せきの郡野殿の郷やくし寺分之内たうとく三貫文の下地」を十二天に寄進している(健田須賀神社文書/結城文書)また,永享8年閏5月3日には某朝幹が関郡地頭に鹿島社造営棟別銭を催促している(同前)当時の関郡の地頭は結城氏朝と思われる結城合戦のあと,結城氏の遺領は一族山川氏義に預けられ,当郡は一時結城氏の支配を離れるが,宝徳2年結城成朝は足利成氏から結城氏の再興と旧領地の相続を許された室町後期,関郡は結城氏の家臣多賀谷氏と関係を深める康正元年多賀谷氏家は関東管領上杉憲忠討伐の功により,恩賞として下妻荘および関郡の地の領有権を安堵されている(下妻市史)多賀谷氏家ははじめ当郡内の関ノ館を根拠地としたが,寛正3年には下妻城が完成し,氏家は弟高経の子家稙を城主とした以後,当郡は慶長6年まで下妻多賀谷氏の支配下に置かれ,下妻領と称されるようになる天文18年3月19日の多門坊改源旦那売券によれば,「関郡一円」の熊野先達は平方の栄城坊であった郡域は,現在の下妻市北西部,関城町の東部を除く大部分,下館市の南部を含むなお,当郡は文禄の太閤検地を機に河内郡と改称された




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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