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常陸国


豊臣大名の配置は,水戸佐竹氏54万5,000石・下館水谷氏2万5,000石・下妻多賀谷氏6万石・江戸崎芦名氏4万5,000石であったが,関ケ原の戦後,佐竹氏が秋田へ国替になり,水戸へ武田信吉が15万石で入封するなど,大名配置は大きく変わり,慶長7年段階では松岡(手綱)戸沢氏4万石・水戸武田氏15万石・下館水谷氏2万5,000石・笠間松平氏3万石・府中六郷氏1万石・宍戸秋田氏5万石・土浦松平氏3万5,000石・牛久山口氏1万石となっている。これら大名の配置替で余った30余万石は徳川家康の直轄地となった。以後も国替は繰り返され,小張・北条・谷田部・太田・古渡・真壁・片野・柿岡などの小藩が一時期成立したが,いずれも短期間で廃藩となっている。大名配置がほぼ落ち着いた18世紀以降江戸期を通じて,藩主の交替はあっても存続した藩は水戸藩をはじめ,牛久・麻生・下館・下妻・笠間・宍戸・土浦・府中の諸藩である。このほか,明治初期の混乱期には志筑藩・松岡藩・松川藩・竜崎藩が成立。佐竹氏は慶長7年突如秋田へ国替となり,水戸に在城すること11年で城下町の建設もようやく一段落したばかりであった。そのあとには家康の五男信吉が名門武田氏の名跡を継ぎ15万石で入封,次いで,慶長8年家康の十男頼宣が20万石で入り,頼宣が駿河移封となって以後,慶長14年家康の十一男頼房が25万石で下妻から入封した。この徳川頼房を始祖とするのが御三家の1つとして名高い水戸藩で,領地高も元禄年間以後は公称35万石となり,東北方面防備のため北部一帯を領知した。水戸藩2代藩主光圀は「大日本史」編纂のため,全国から多くの学者を招いたが,これがのち寛政前後から再び盛んとなり,水戸学とよばれて広く注目された。また天保期9代藩主斉昭の行う藩政改革の裏づけとなったばかりでなく,水戸学の説く尊王攘夷論は,幕末政治運動の思想的支柱となる。この水戸藩と,9万5,000石の土浦藩,8万石の笠間藩を除いて,他はいずれも1~2万石の小藩であり,おおむね西部が小大名の藩領と幕府領・旗本知行地,南部が幕府領・旗本知行地とに細分されていた。総高と村数は「元禄郷帳」で90万3,778石余(他に永21貫文)・1,677村,「天保郷帳」100万5,707石余(他に永21貫文)・1,723村,「旧高簿」(一部「旧高旧領」による)135万1,063石余(他に永6貫文)・1,713村である。元禄15年の記録によれば,総高90万3,778石4斗5升8合・永21貫文は正保2年の改高に指引6万2,976石6斗2升9合1勺の増加とされており,正保2年の総高は84万石余となる。元禄15年時点で,幕府代官は9人,領主327人,朱印寺社378,朱印寺社領は1万159石あり,このうち2,253石余は水戸藩領に設定された(新編常陸)。なお「旧高簿」によれば,明治元年の国内の旧旗本は479家。人口は文化元年には男25万9,502人・女22万5,943人の計48万5,445人,弘化3年には男26万9,082人・女25万2,695人の計52万1,777人とある(吹塵録)。陸上交通では,常陸国内の脇街道は9本あり,いずれも,水戸を中心として放射状に四方へのびていた。水戸から東南に向かい下総河原代村に達する水戸街道(江戸街道),北方へ陸奥垬村に出る棚倉街道,北へ向かい東へ折れて陸奥関田村に至る岩城相馬街道の3道は大道であった。ほかに西北陸奥南郷への南郷街道,南郷街道の西にあり下野矢又村へ出る那須街道,西方へ向かい少し北折して下野藍田村へ出る茂木宇都宮街道,西方下総結城への結城街道,結城街道と水戸街道の中間にあり上野【こうずけ】瀬戸井村へ通じる瀬戸井街道,東南下総飯沼への飯沼街道,以上9道であった。なかでも水戸街道が最も整備され,江戸~水戸間の往来が盛んであった。当時江戸~水戸間の往来の日数は2泊3日ないし3泊4日が普通で,宿場としては長岡・土浦・牛久・取手の各宿などが重要であった。交通の発達は商品流通の拡大をもたらし,米のほか各地に特産物の生産を盛んにした。特産物には北部の水戸領で生産される和紙・粉蒟蒻・煙草がある。和紙は水戸藩の国産第一といわれ,久慈・那珂両郡下で漉かれ,西之内紙として全国的に知られた。西の内紙の名は,那珂郡西野内の地名に由来し,楮皮だけでほかの材料を混入しないで漉くのが特色。色はやや黄褐色を帯びるが丈夫で保存に適し,藩の料紙のほか商家の大福帳などに広く使用された。紙と並んで同地方から生産される蒟蒻は,18世紀後半久慈郡諸沢村の中島藤右衛門が,粉蒟蒻の製法を考案してから販路も広くなり,販路はのち遠く関西方面から幕末には九州まで拡大された。元禄年間水戸藩は和紙を専売に,蒟蒻もそれに準ずるような統制を加えた。煙草は久慈郡赤土村が最初と伝えるが,元禄頃から次第に盛んとなり,山間の畠地に耕作され,水府煙草の名で知られた。西部の下館・真壁地方では,元禄年間以降綿の栽培が盛んとなり,18世紀後半頃からは江戸方面に晒木綿に加工して出荷された。木綿問屋は下館に多く,19世紀はじめには下館7,真岡(栃木県)2,結城・真壁・水戸各1軒の存在が知られる。真岡木綿の名で知られる晒木綿は,松坂屋・白木屋など江戸の問屋との取引が行われたが,化政期がその頂点で安政の開港後は,安価な外綿糸の輸入によって打撃を受け,綿花栽培は衰退した。筑波山麓の地域では,正徳年間から藺草の生産が開始され,灯心に加工されて江戸へ出荷された。藺草の生産地は,土浦から下総の相馬郡に及びとりわけ土浦藩は天保年間に栽培奨励を行い,新治郡高岡村など山根8か村が中心地となった。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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