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真壁荘(中世)


 鎌倉期に見える荘園名。真壁郡のうち。寛喜元年7月19日,真壁友幹から子息時幹への14か郷の地頭職譲与を安堵した将軍九条朝経袖判下文に,「常陸国真壁郡内本木・安部田・大曽禰・伊々田・北小幡・南小幡・大国玉・竹来〈已上八ケ郷庄領〉……地頭職事」と見え,荘領として8か郷が記されている。(真壁文書/鎌遺3848)。これらの郷は,いずれも郡の北部に集中し,大国玉郷以外は郡の中央部を貫流する桜川の東方に位置している。このことから荘域は,現在の真壁町下小幡から大和村の大国玉・本木にかけての地域に比定される。荘内竹来郷をめぐる地頭江馬光政と預所某行定の所務相論に対する正和元年7月23日の関東下知状写によると「預所職者,(三)善隼人正康清法師〈法名善清〉,文治二年補任以来,得永名〈号大和田村〉者,預所自名之旨,行定等陳答」と見え(鹿島神宮文書/県史料中世Ⅰ),預所側が勝訴している。預所側の主張によると,当荘は鎌倉期に入るまでに荘園となり,文治2年,幕府初代問注所執事三善康信の弟康清が預所に補任され,得永名とよばれる預所名を設定し,開発を進めたことが知られる。弘安年間に4反60歩であったこの名は,正和年間頃には数十町まで増大し,大和田村とよばれていたという。また荘内竹来郷には,4つの百姓名が存在し,名主が荒野の開発を行っている。正和年間の預所行定は,弘安5年母三善氏から預所名などどを譲与されていたことからすると,預所職は三善氏の女系の子孫に伝領されていったものと推測される。一方,地頭職は真壁時幹から盛時・幹重へと真壁氏に相伝され(真壁文書),本木郷は,弘安の勲功地として佐々木朝綱に充行われ,弘安10年,頼綱から次男義綱に譲与されている(朽木古文書)。また,正安元年11月,幕府は真壁盛時から竹来郷地頭職を没収し,翌2年8月,北条一族の江馬光政を補任している。正和元年7月23日の関東下知状写によれば,正和年間までに荘内北小幡郷・本木郷・阿部田郷では地頭と預所の所務相論の結果,郷内の3分の2に地頭の一円進止が確立していた(鹿島神宮文書/県史料中世Ⅰ)。正安元年の盛時譲状まで見られた「庄内郷々」「公領郷々」の区別は,康永3年の足利尊氏袖判下文以降は見られないことから(真壁文書),鎌倉末期から南北朝初期の段階で当荘の実体は失われたものと推測される。なお預所職補任権をもつ領家については,三善康清の立場から関東御領の可能性もあるが未詳。荘域は中世を通して真壁氏の支配下にあったが,天正18年真壁領は豊臣政権のもとで佐竹領に編成された。江戸期には当地の地名は継承されないが,「元禄郷帳」によれば,町屋村は古くは真壁町村と称されたという。町屋村と真壁城のあった古城村が中世真壁領の中心であったと考えられる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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