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宇都宮城下(近世)


 江戸期の城下町名。河内郡のうち。近世宇都宮城下町の原形は,慶長3~6年に蒲生秀行が宇都宮の城主であった時期に形成されたといわれる。秀行は宇都宮城の修築をすすめるとともに,城下の出入口を厳重にするため,成高寺・粉河寺・東勝寺,および竹下村の同慶寺などを解体した資材を用い,不動口・歌橋口・伝馬町口・佐野口を開き,不明門【あかずのもん】を設けた。また,蒲生氏の根拠地であった近江国日野出身の商人を東勝寺跡付近に住まわせ日野町を起こしたり,田川沿岸に紺染職人をまとめて紺屋町としたり,釜川に城主通行の御橋と庶民用の往還橋を架設するなど町割の基礎となった業績を残している。慶長6年から宇都宮藩主は奥平家昌となり,同7年には宇都宮町の地子銭が免ぜられた。同年10月城下に大火があり,宇都宮大明神の社殿も炎上し,徳川家康が再建とその後の維持のため神領1,500石と簗一瀬を寄進している。また,奥平家昌により多数の寺院が復興・建立され,さらに家昌の爵号大膳大夫にちなんで大膳市が開かれるなど城下が徐々に整えられた。元和5年奥平氏に代わって本多正純が藩主となり,幕府老中でもあった正純の着任中に宇都宮の城郭の改築整備,城下道路の整備などが行われ,基本的な町割が完成した。この頃までの宇都宮城は石垣や天守閣を持たず,土塁と堀をめぐらした中に居館を設けた平城であった。北方には宇都宮大明神の鎮座する臼が峯と戸祭丘陵があり,南方は水田や湿地が広がり,また東方には田川を控えるという地の利があったが,西方は松が峰台地と平地が展開しており,防御上の弱点となっていた。このため宇都宮氏在城の時も,西方に多気城を山城として築き,戦闘の場合には多気山の天嶮によっていた。本多正純は元和6年,従来三の丸まであった宇都宮城の城地を約2倍に拡張し,東は田川淵まで,北は釜川岸まで,西は松ケ峰外郭に新たに土塁を拡張した。また,三の丸太鼓門前に東西90間の三日月堀を新たに設け,大手門を宇都宮大明神前から北西部の江野町口に移したほか,拡張した回曲輪に松ケ峰門・地蔵門・今小路門・中河原門・下河原門を設けた。宇都宮城の概要を見ると,まず本丸には本多正純の時代には天守閣があったと伝えられるが,のち享保年間頃まで御殿がおかれ,その後は空地で,ときおり藩兵の教練場として活用され,天保14年には将軍宿舎が建造された。本丸の土塁上に5か所の櫓があり,北西角の清明台櫓は天守閣の代わりとして大切にされていた。本丸の北側の清水門が表門で,南側が搦手【からめて】の伊賀門である。清水門の北西部に二の丸御殿が建造され,のちここが藩主の居所となった。二の丸土塁上には,二の丸門左右に竜所前櫓など3か所の櫓がある。二の丸御門口は石垣で囲まれていて枡形になっており,そのほかに寺社方役所・元締定年行司・郡奉行所・勘定所・金蔵など三の丸の建造物があった。太鼓門左右の土塁と塀はさらに左右に延びて,東は蓮池から南館へ,西は百間堀から地蔵堀へと連繋している。この堀を隔てた外側に回曲輪がつくられたのである。元和6年以降家中の上士級のものが三の丸外曲輪である回曲輪に屋敷を賜わって居住した。屋敷の位置は時期により多少異なるが,戸田氏が藩主であった時期は,大手門内から三日月堀に至る左右に重役の屋敷があった。回曲輪内には100石以上,またはそれに準ずる藩士の屋敷が70程あった。曲輪の南部にあたる南館には御蔵米倉庫が5棟あり,領内各村から蔵米入りとして納入される年貢米は,簗瀬村から田川の橋を渡って下河原御門から米蔵へ運ばれた。米蔵の管理は,南館外の惣構に居所を賜わる藩士があたった。本多正純は城内の拡張とともに,城下町の町割を進めるため,それまで城下南方から城下東を通っていた奥州街道を城郭西方に移し,日光街道を開くとともに,池上町から臼が峯の南端を切り通し,城下北部を東西に通る通りを奥州街道とした。この時期城郭付近にあった諸寺院は外郭へ移転され,防塁線の1つとなる。現在でも,今泉町興禅寺から二荒山神社を経て,材木町観専寺・安養寺に至る線上に,これらの寺院を多く見ることができる。城郭の西方の防御として,まず,松ケ峰門外側に一の筋・二の筋・三の筋・四の筋を設け,中小姓以上の武家屋敷を配した。その西側に日光街道沿いに材木町・挽路町・茂破【もやぶり】町・蓬莱町・大黒町など城下町を置き,さらにその西側に代官屋敷(大寛町)を配した。また,日光街道沿い北部に武家屋敷町として小幡町などが設けられ,城下町の外縁,特に西側に接する西原村との間を中心に,足軽などの組屋敷が多数設定された。池上町裏の鼠穴と称された小路には町方同心の屋敷があり,東部中河原にも武家屋敷が並び,このほか足軽組屋敷は城下東方の川向あるいは南部の不動堂付近などにも設けられた。のち,安永5年の史料によれば,三の丸御門は太鼓門・宇多門・蓮池門・西館門・小野森門・南館門・下河原門・中河原門・地蔵門・今小路門・大手御門・松ケ峰御門・中門の13か所,武家屋敷地と町家を区分する曲輪外の木戸は不動口・新町口・佐野口・材木町口・伝馬町口・西原口などがあり,城下周縁部に配された御組屋敷として稲荷組・大夫組・兵衛組・六組・蔵組・治組・右衛門組・左衛門組・平組・八組・郎組・内組・御簱組・御長柄組・元組・外鼠穴・伊賀町が見える(宇都宮市史)。なお,組屋敷の名は組頭名によることもあり,かなりまちまちであった。宝永6年の御目見以上役付の家中が240人で,これらの屋敷のほかに,小役人屋敷・組屋敷・中間長屋等々があったのである(県史近世1)。城下町でありながら,宇都宮大明神の門前町,あるいは日光・奥州街道の宿場町としての機能も有する宇都宮は,武士を城下に集住させるとともに,武士と町人・農民との居住地の分離も明確であった。武家屋敷地と町家とは背中あわせで,それぞれ木戸で仕切られており,一ノ筋~四ノ筋などでは竹林や茶畑を境に植え見通しがきかないようにされていた。本多正純の城下整備に際し,下押切(押切町)の角でまっすぐに田川に合流していた釜川を,堀により南へ導き入れ,城の東側を堅固にし,また,宇都宮大明神の鳥居前から東方に臼が峯に切り通し新道が設けられた。この頃,新田開発を目的として逆木用水が開削され,城下整備のための工事用材も運搬したので御用川と呼ばれた。城下町の町数は,享保9年の書上げによれば,古くより地子免許であった町として,熱木町・歌橋町・大黒町・蓬莱町・茂破町・挽路町・材木町・材木横町・池上裏町・池上町・杉原町・鉄砲町・曲師【まげし】町・馬場町・日野町・今小路町・剣宮【つるぎのみや】町・石町・押切町・上河原町・小袋町・大町・日野横町・大工町・宮島町・小田町・小門町・扇町・清巌寺町・寺町・新宿町・博労町の32町があげられている。元文年間の書上げによれば,地子免許の町として小伝馬町・伝馬町・新石町が増え,計35町の坪数13万1,206坪程となっており,このほかに地子免許でない町として南新町・本郷町・新田町・下河原町・元石町の5町があげられている。これら宇都宮町の本軒家の合計は675軒,半軒家の合計は805軒余,また,城下町高の合計は4,268石余,もちろん大部分の地子は免除であった(宇都宮市史)。こののち,さらに東新町が加わる。これらの書き上げは地子免許された城下各町が中心であり,宇都宮宿への人馬役負担などに対しての地子免許であったため,寺社門前町・職人町,あるいは町家と武家屋敷地・在郷村の入り組んだ町などはあげられていない。江野町・釈迦堂町・六軒町・餌指町・紺屋町・新組屋町・猿ケ町・鉦打【かねうち】町・壁町・鷹匠町などがそのような町として他史料に見える。なお,これらの町は江野町を除いて,大部分が江戸期のうちに城下各町・武家屋敷地・在郷村に吸収されてしまうものが多い。江戸期の城下町は,宇都宮大明神を境として,東部を上町,西部を下町と大きく二分されることもあった。本多忠泰が藩主であった天和・貞享年間頃に,城下今小路町裏にあった牢屋が城内松ケ峰南方に移転され,池上町に本陣が設けられた。天和3年には城内火災により二の丸御殿が全焼。元禄8年の宗旨改によれば,城下の人口は男5,254・女4,490(同前)。このほか,時期により変動はあるが,およそ1,000人の藩士,およびその家族2,000人程がおり,合計1万2,000人程が宇都宮の総人口であったと推定できる。元禄14年には江野町東川岸の奉公人屋敷・延寿院屋敷が御用地として召上げられ,広小路となり,替地として鹿沼道沿いなど3か所に移転された。同年城内押田(御下)にあった焔焇蔵(火薬庫)が山本村の岩山に移された。城下町各町に住む町人を直接支配したのは町奉行であり,部下の与力同心らとともに民政を管轄した。町方においては,町年寄・名主・五人組という自治組織が構成されていた。町年寄は寛文年間に6名,正徳年間4名,享和年間では5名,19世紀以降は植木・森田・長江の3家になった。城下各町は町年寄ごとに池上町組・日野町組・大町組に三分して監督取締りがなされた(宇都宮市史)。なお,寛政8年宇都宮宿役馬町割覚では,33か町が石町組・大町組・池上町組に分けられており,あわせて役馬100疋(うち25疋は買入馬)を負担している(県史近世2)。町年寄の下に,各町1,2名の町名主が置かれ,幕末には各町1名となった。各町の大部分は地子銭を免除されていたが,町人は各種の負担があり,軒役として伝馬役・道路掃除役・消防の火事役・城内の草刈役などが割り当てられた。宇都宮5街道のうち日光街道と奥州街道の分岐点であり,また,脇街道のうち,栃木街道・鹿沼街道・茂木【もてぎ】街道・水戸北街道・真岡【もうか】街道などの始点にあたる交通の要衝で,通常日光街道の宿場での公用人馬継立は人足25人,馬25疋と定められていたが,宇都宮宿では人足500人,馬100疋を継ぎたてた。のち,減少する。「日光街道宿村大概帳」によれば,宿内の長さは南北20町余・東西18町58間,各宿までの里程は,雀宮宿へ2里1町,下徳次郎宿へ2里13町,中徳次郎宿へ2里17町,上徳次郎宿へ2里31町,奥州街道白沢宿へ2里28町余,水戸北街道石井村へ1里半。天保14年の宿内人別6,457・家数1,219,本陣は宿内の伝馬町・池上町に各1軒,脇本陣は伝馬町に1軒あり,旅籠屋は42軒。宿建人馬は25人・25疋で,人馬継問屋が伝馬町にあり,問屋2・年寄2・馬指4がいた。荷物貫目改所が伝馬町にあった。また,正徳元年に定められた駄賃・人足賃銭は,雀宮宿へは荷物1駄80文・乗掛荷人共80文・軽尻馬1疋53文・人足41文,石井宿へは荷物1駄60文・乗掛荷人共60文・軽尻馬1疋41文・人足1人30文,白沢宿へは荷物1駄92文・乗掛荷人共92文・軽尻馬1疋61文・人足1人47文,下徳次郎宿へは荷物1駄92文・乗掛荷人共92文・軽尻馬1疋61文・人足1人47文,中徳次郎宿へは荷物1駄116文・乗掛荷人共116文・軽尻馬1疋74文・人足1人56文であった。一里塚が,徳次郎宿までの間に1か所,白沢宿までの間に2か所あった。貞享・元禄年間には,道者宿について伝馬町・池上町と日野町との間で出入が起きている(県史近世1)。元禄9年宇都宮宿助郷帳によれば,同宿大助郷は宿之郷村をはじめ17か村が見える(同前)。このほか,日光社参等々に際し,臨時の助郷が近隣諸村に課せられた。宇都宮は北関東における商品流通の一大中心地でもあり,城下各町には多種多様な商人がおり,物資の流通に関与していた。城下では古くから上河原町で市が開かれていたが,寛永11年以降は奥州街道沿いの上河原町が避けられ,新宿町に移転され,年頭の初市以外は新宿町において毎月3と8の日に市立がなされた。新宿市では,木綿座・紙座・曲師座・小間物座などが店を張っていた。元和年間にそれまで今小路町にあった魚店(魚問屋)が大町に移転され,毎月朔日・5日・10日・15日・20日・25日に市が立った。以降大町の魚店に城下での魚商売が限定されていたが,安永8年池上町に塩魚問屋が出来てから徐々に魚類の独占販売はくずれた。そのほか城下では,江戸後期になると,油屋仲間・醤油屋仲間・酒造仲間・質屋仲間など株仲間が許可され独占販売する者も見られる。寛政年間の諸職人諸商人留によれば,城下39か町の職人・商人が計515人書き上げられている。主な町につき,石町に穀問屋21人,伝馬町に旅籠屋15人,小伝馬町に糀屋15人,本郷町に穀物屋6人,大町に肴屋11人,宮島町に古着屋12人,寺町に古着屋15人,大工町に穀物屋16人・干鰯屋6人,池上町に旅籠屋16人,上河原町に荒物屋18人・造酒屋5人であった(宇都宮市史)。江戸後期の城下の被災状況を見ると,主なものとして,寛政2年2月押切町からの出火により,町家118軒・農家107軒・寺院1か寺・足軽屋敷10軒が焼失,さらに同月の暴風雨により100軒余が損壊している。文化10年1月大町からの出火により,町家620軒余・農家114軒・土蔵62棟が焼失,翌11年城下百目鬼【どうめき】の町家から出火し,町家205軒・農家27軒・寺院6か寺を焼失している。また,天保3年の大火では,町家467軒と宇都宮大明神社殿を焼失している。文化年間に創設されたとされる宇都宮藩校潔進館が百間堀前にあった。潔進館は南楼と北楼とに区別され,南楼では専ら文学を教授し,北楼では数学・習字が教えられた。教官は各楼2名。文政年間に北楼が火災で焼失,南楼だけ残り,のち安政5年に潔進館を百間堀前から大手門内の間瀬氏邸跡に移転・拡張し,修道館と改称した。藩士の子弟を中心に文武両道の教育が行われた。民間では,寛政年間に心学講舎として誠形舎が城下に設立されている。また,明和年間~安永年間頃に開塾したといわれる福井重次郎の武術道場は,入門者が1,000余人を数えたという。そのほか,幕末期の塾・寺子屋などは城下に総計20ほどあった(宇都宮市史)。「旧高旧領」によれば,池上町をはじめ城下19か町の町高は計32石余。戊辰戦争中,明治元年6~8月には古河(下総)にあった総野鎮撫府が宇都宮城中に置かれた。明治2年になると,戦火に焼失した宇都宮町にも新宿市が再開設されるなど,復興の兆しが見えはじめる。同4年宇都宮県の成立とともに,県令鍋島幹は庁舎を宇都宮城内に新築することを大蔵省に願い出たが,陸軍省から城内には兵営を設置する旨の通達があり,このため県庁は西原町(現材木町)安養寺に仮庁舎を設けることになった。のち庁舎は宇都宮城外郭の朝台・梅が岡に新築移転する。明治4年曲師町に裁判所,同5年池上町に郵便役所(のち明治11年に伝馬町,同20年に現在の本町に移転),同年二里山に共義病院(同6年宇都宮病院と改称,同7年旧大手門前堀跡の基業学校内に移転),同6年江野町に警察署が設置された。明治5年大小区画及正副戸長一覧表によれば,市中は第1大区1~6小区に分けられ,戸数計3,494。また,江戸期の武家屋敷地名に基づく字名として,元大手内・最上河原・中門内・松ケ峰・南館・三日月堀前・百間堀前・中河原・川向・一ノ筋・二ノ筋・三ノ筋・四ノ筋・不動組・広小路・鼠穴・下邸・小幡町・元郎組・元蔵組・代官町・元六組・元左衛門組・元次組・元助組・元長柄組・大谷道・伊賀町・元組・大黒町西裏が見え,もと城下各町名および寺社門前地名・近隣在郷村名として,下河原町・今小路町・元石町・石町・大町・剣宮町・日野町・馬場町・曲師町・曲師町裏通り侍邸・簗瀬村・宿郷村・八日市場・押切町・上河原町・小袋町・博労町・今泉村・今泉新田・清巌寺町・新宿町・大工町・寺町・扇町・小門町・小田町・塙田村・宮島町・千手町・釈迦堂町・池上町・江野町・杉原町・粉河寺門前・裏町・鉄砲町・真福寺門前・延命院門前・伝馬町・小伝馬町・新田町・餌差町・本郷町・新石町・材木町・挽路町・茂破町・蓬莱町・大黒町・歌橋町・熱木町・南新町・材木横町・江野町代地・西原村があげられている(県史近現代1)。戊辰戦争で灰燼に帰していた二荒山神社は,明治5年に再建が開始され,6年を要し,同10年に仮本殿が完成する。明治6年宇都宮県の廃止,栃木県への合併に伴い,宇都宮は栃木県に所属。同時に裁判所をはじめ諸官庁が栃木町に移転され,市中の活気が薄れた。同年の大区小区制改正により,宇都宮町は第6大区4~5小区となった。4小区はもと上町,5小区はもと下町にあたる。明治11年宇都宮支庁・大区小区制の廃止にともない宇都宮町は河内郡の管轄下となり,江野町の現東武デパート前に河内郡役所が置かれた。同14年の戸数3,956・人口1万8,536。同15年にいたって,宇都宮町有志による栃木町から宇都宮町への県庁移転運動が活発化した。はじめ栃木町は県の中央部であったが,明治9年北部に3郡域が編入され,栃木町が県南域になったこと,あるいは,町の規模は宇都宮の方が大きく,宇都宮の方が県域の中央に位置することなどが移転の理由であった。有志は足利方面まで遊説するとともに,内務省に陳情したが,栃木町の反対などによりいったん却下された。同16年三島通庸が栃木県令となり,請願が容れられ,同17年に宇都宮町に県庁は移転された。なお,移転当初は河内郡役所,のち安養寺が仮庁舎にあてられ,その後新庁舎が二里山の中里邸跡に完成した。新県庁舎の位置決定に引き続いて,師範学校・監獄などの敷地選定,これに伴う街路の整備拡張が急務となり,従来裏通りであった馬場町・相生【あいおい】町・千手町・大工町などを池上町から直通させ,道幅を拡張し,宝蔵寺の境内をぬけて停車場に続く停車場通りが設けられた(宇都宮市史)。学校教育では,明治4年修道館の閉館後,同5年学制制定以前に仮学校が一時期開校していた。同6年教師養成の数学校が開校,つづいて中学校(もと仮学校,のち師範学校,基業学校と改称)が開校し,数学校を合併するが,同6年中に閉校。同年小学校として,西原村安養寺に開文舎,泉町正行寺に修開舎,西原村一向寺に涵養舎,二荒山神社に導民校,宮島町能延寺に開智校,小袋町宝蔵寺に時習校がそれぞれ開校。同10年6小学校の就学児童数は計1,492,就学率は約45%。のち,涵養舎・開文舎・修開舎が統合されて宇都宮小学西校,導民校・開智校・時習校が統合されて宇都宮小学東校となる。同18年栃木県師範学校(のちの栃木県尋常師範学校),および栃木県第一中学校(のちの栃木県中学校)が栃木町から二里山に移転,また,下野英学校が開校(のちの下野中学・作新学院)が創設。明治17年栃木新聞と下野旭新聞が合併して下野新聞が発行。同18年日本鉄道(現国鉄東北本線)大宮~宇都宮間が開通,宇都宮駅開業。同19年日本鉄道宇都宮~黒磯間が開通,この頃陸上運輸が河川運輸にとってかわる端緒が開かれた。また,商業活動の近代化が図られ,このころには同業者による団体組織として水車業・旅館業・印刷業・たたみ業・材木商・菓子商・質屋・陶器商・肥料商・紙商・石材問屋・湯屋などが見られる(宇都宮市史)。同20年中河原町に座繰製糸練習所が開所,杉原町に第一国立銀行支店が開店,二荒山神社大鳥居が落成。同21年火災で県庁が焼失,飛火で塙田村43戸・今泉村20戸が類焼。明治22年市制町村制施行により,宇都宮町となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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