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乙女村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。都賀郡のうち。「寛文朱印留」「元禄郷帳」ではともに下総古河藩領,「改革組合村」「旧高旧領」ではともに幕府領。村高は,「慶安郷帳」780石余(田302石余・畑477石余),ほかに仏光寺領10石・光明寺領3石・泉竜寺領3石・万福寺領2石,「元禄郷帳」798石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに1,034石余。「改革組合村」では間々田・野木宿組合寄場に属し,天保年間の家数85。寛文5年古河藩土井利重検地帳では都賀郡小山庄を冠している(小山市史)。慶安元年8月17日家光朱印状によれば,八幡宮領3石(別当光明寺),泉竜寺不動仏供領3石,仏光寺観音領10石,満福寺薬師仏供領2石(同前)。寛保元年当時は日光街道間々田宿の助郷村で,勤高780石(同前)。地内に河岸があり,慶長5年の関ケ原の戦の時,小山評定後の徳川家康は,同河岸から船で江戸へ下った。元禄3年「道法并運賃書付」によれば,黒(思)川沿いに乙女河岸が廻米積出河岸として見え,江戸までの距離28里,米100石についての運賃3石1斗となっている(徳川禁令考)。安永3年「河岸之御運上一件留帳」では問屋3,運上永1貫750文(小山市史)。同河岸は上・中・下の3河岸に分かれており,それぞれ山中八郎兵衛・青木与右衛門・青木覚左衛門が河岸問屋を勤め,明治2年都賀郡河岸取調書上帳によれば,問屋の持船数は,覚左衛門が9(400俵積2・300俵積1・250俵積6),八郎兵衛が4(400俵積2・250俵積2),与右衛門は持船無となっている(県史近世2)。これら大型の高瀬船は,思川上流の壬生【みぶ】・三拝・島田・半田の諸河岸から送られた廻米・諸荷物を積み直して江戸(東京)まで廻漕するためのものであった。通常上り荷物は江戸積問屋を通して当河岸・友沼河岸(野木町)・網戸河岸へ送状を添えた上で壬生まで輸送するのが慣例であったが,宝暦元年壬生河岸がこの慣例を破ったため争論となった(小山市史)。また,江戸初期より,日光廟の造営に際しては,思川上流で産する資材を同河岸で陸揚げして,小山から壬生通り経由で日光に送られている(県史通史編4)。明治4年栃木県に所属。同14年の乙女河岸の船問屋数3,上流の神鳥谷【しととのや】河岸まで3里,下流の友沼河岸まで5町,東京までの里程は36里であった(県治提要)。寺社は字上宿の真言宗泉竜寺,字下宿の同宗仏光寺,字寒沢の同宗満福寺,字西館の八幡宮(旧県史)。明治11年下都賀郡に属し,同22年間々田村の大字となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7278249