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小林村(近世)


 江戸期~明治12年の村名。都賀郡のうち。文禄4年の「榎本領二十四村惣高覚」に村名が見え,560石5斗9升5合とある(小山市史)。「元禄郷帳」「改革組合村」「旧高旧領」ではともに下総古河藩領。村高は,「慶安郷帳」「元禄郷帳」ともに733石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに737石余。慶長13年検地が行われ,反別64町余,うち田37町余・畑26町9反余。寛文6年の五人組帳では人数47(うち水呑12)。宝暦10年の村明細帳によれば,家数43,人数163,うち男89・女71,僧1・道心1・座頭1,馬数1(同前)。「改革組合村」では富田宿組合寄場に属し,天保年間の家数38。当村には鷹を養飼・訓練するための捉飼場が設けられている。寛永20年は春の大雨のため,大麦・小麦の作付面積31町4反余のうち22町2反余が無収穫であったという。江戸中期までに日光への脇往還で,日光街道野木宿と例幣使街道栃木宿を結ぶ日光山裏道の梅之宮宿を形成した。延享元年6月,幕府の裁許により同宿の御定賃銭が設定され,野木宿までが荷物1駄162文・乗掛荷人共162文・軽尻馬1疋110文・人足1人79文,栃木宿までは荷物1駄68文・乗掛荷人共68文・軽尻馬1疋46文・人足1人35文となった。明和元年7月日光山法会につき日光街道小山宿の増助郷を命じられたが,正徳5年の際は勤めたものの,享保13年日光御社参の節は免除となり,延享元年宿場に認定されてからは梅之宮宿としての役を勤めるため免除となっているとして免除願を出した。そのなかで当村は先年百姓52軒・馬30疋であったところ,当時は百姓34軒・馬8疋に減少し,困窮のあまり囲人馬3人・3疋を確保するのが限度であると窮状を訴えてもいる。幕末期の村鑑帳によれば,高737石余,うち3石余は前々改出新田,159石余は無地高,反別は田方37町2反余・畑方27町3反余,この取米224石余・取永48貫438文,本年貢のほかに野永1貫152文・夫永5貫774文,ほかに糠藁永があり,大豆4石余を納め,人数178,うち男91・女87,家数45,馬数7,農間に女は木綿などを織り出した。また,用水は巴波川・土与川より引き,寺院には真言宗遍照院があった(古河市史)。明治4年栃木県に所属。明治11年下都賀郡に属し,同12年南小林村と改称。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7278269