100辞書・辞典一括検索

JLogos

62

金崎村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。都賀郡のうち。例幣使街道金崎宿を形成。慶長5年西方藩主藤田能登守の下知により民家50軒が柴村から分村。開発人は鮎田播磨助という(西方記録)。西方郷13か村の1つ。はじめ下総結城領,慶長年間西方藩領(恩栄録),そののち旗本駒木根右近知行,元和2年武蔵鳩谷藩領,同3年同藩主阿部正次の転封に伴い上総大多喜藩領,同5年同じく転封により相模小田原藩領,同9年三たび転封により武蔵岩槻藩領となり,天和元年下総古河藩領,元禄年間に幕府領を経て宇都宮藩領となる。村高は,「慶安郷帳」287石余(田180石余・畑107石余),「元禄郷帳」499石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに500石余。検地は慶長4年・寛文2年に行われた(西方記録・例幣使道宿村大概帳)。元和3年3月徳川家康の遺骸を日光へ移葬の際には当村民が小倉川川越人足役を勤めた。その後正保年間に京都からの日光例幣使が定例化してから次第に例幣使街道の宿場として発展した。宿場は明和元年から道中奉行支配となって正式に金崎宿と呼ばれ,加宿として深見内・新宿の2か村と助郷4か村が指定されたが,明和3年にはさらに和久井・真名子など15か村が助郷となった(西方都賀の郷土史・岩出家文書)。「例幣使道宿村大概帳」によれば,宿内の長さは南北5町30間,宿高は500石余で,地子免許はなかった。各宿までの里程は倉賀野宿へ23里11町,合戦場宿へ1里30町,楡木宿へ1里8町。加宿は新宿村(加宿高600石余)・深見内村(加宿高116石余)で,天保14年の宿内人別380(男181・女199),家数86。本陣は宿の中程に1軒,旅籠屋12軒。宿建人馬は25人・25疋で人馬継問屋が宿内の中町に1か所あり,問屋2・年寄3・下役3がいた。明和3年に定められた駄賃・人足賃銭は,楡木宿へは荷物1駄49文・乗掛荷人共49文・軽尻馬1疋32文・人足1人25文,合戦場宿へは荷物1駄71文・乗掛荷人共71文・軽尻馬1疋47文・人足1人35文であった。楡木宿までの間に一里塚が1か所置かれた。米の津出しは2里30町離れた栃木河岸を利用し,また小倉川で筏下げを行った。小倉川は毎年5~8月は歩行渡りができ,時により作場船を用いるが,9月~翌年4月は仮土橋を渡した。街道沿いには家が並び,茶店や商家もあるが,ほかは平坦な田畑・山林が広がる。男は農間に駄賃稼ぎをしている。作物は五穀のほかその時々の野菜や麻・煙草を作った。「改革組合村」では合戦場宿組合寄場に属した。用水は高500石で西方郷12か村用水組合に加わり,小倉川からの引水の用益権を持っていた。慶応4年4月中旬,安塚村あたりに起こった打毀は西方郷にも波及し,小百姓が西方山から峯村実相寺に屯集して気勢を上げ,当宿問屋森右衛門をはじめ郷内の豪家を襲って,借金の一部棄捐,物価引下げに成功した。当時の宿内窮民家数39(中田家文書・島田家文書)。鎮守は大沢田村に鎮座する近津明神。9月29日の例大祭には当村を含む氏子14か村の座持67人が拝殿へ昇って神酒を受けたのち,2か村ずつが当番となって附祭りを行った(阿久津家文書)。寺院には禅宗の観音寺,都賀郡下古山村の新義真言宗華蔵寺門徒の千手院がある。明治4年栃木県に所属。同8年の反別78町6反余,戸数102・人員505(中田家文書),同14年の戸数152・人口765(県治提要)。明治5年地内に郵便取扱所が設けられ,同19年三等郵便局となる。明治8年千手院を仮校舎として小学校開設,同18年金井村との境に校舎を新築し,金井村薬王院の小学校と合併,同20年西方尋常高等小学校金崎分校となる。明治18年連合戸長役場が地内に移転。明治11年上都賀郡に属し,同22年西方村の大字となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7278395