倉ケ崎新田(近世)

江戸期~明治22年の村名。河内郡のうち。日光神領。もとは倉ケ崎村と1村であったが,寛文7年開墾に着手し,元禄15年倉ケ崎新田と称し分村した(地誌編輯材料取調書)。ただし「慶安郷帳」「元禄郷帳」「天保郷帳」では当村の名は見えない。村高は,「旧高旧領」11石余。新田村のため日光神領特有の小物成などはなく,倉ケ崎村の一部としてこれらを負担した。二宮尊徳によって日光仕法が開始された嘉永6年の家数9・人数38,馬数7,反別4町7反余,荒畑4反余,起返地1町6反余(全集)。同年尊徳は日光神領の仕法のために第1回廻村を行い,当村へは7月17日に訪れ,鍛冶職人藤助の潰れを再興し,13.7坪を新築させた(いまいち市史)。明治4年宇都宮県を経て,同6年栃木県に所属。明治初期の「地誌編輯材料取調書」によれば,村の広さは前原区東西約230間・南北約175間,長島区約210間・約90間,岩鼻区約300間・約260間,元禄15年から明治8年までの総反別は5町余,うち田2反余・畑4町4反余・屋敷3反余,明治9年の地租改正反別は29町3反余,うち田6町7反余・畑7町7反余・宅地4反余・平林8町6反余・荒地7反余など。また,明治10年の戸数11・人口79,うち男38・女41,牝馬14,物産は明治9年前後3年間の収穫額として,米44石余・大麦12石余・小麦8石余・稗10石余・荏4石余・ソバ1石余・芋83駄。学校は,明治6年大桑村・倉ケ崎村・川原新田・芹沼村・芹沼新田と連合して大桑村に志道舎開校(同前)。明治22年豊岡村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7278870 |