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轟村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。河内郡のうち。「元禄郷帳」では古くは廿六村と書いたと注記されている。はじめ下総山川藩領,寛永12年武蔵岩槻藩領,正保元年からは日光神領(地誌編輯材料取調書)。村高は,「慶安郷帳」24石(畑のみ),「元禄郷帳」「天保郷帳」「旧高旧領」ともに211石余。本年貢のほか,日光神領特有の小物成などがあり,瀬尾・平ケ崎・大室・芹沼の各村とともに村高の合計約1,000石をもって1組を構成し,御馬屋納物として薪90束・苅大豆90連・荒糟10俵・馬草135束などを納めた。伝説に残る轟早進は,正しくは宗俊と称し,足が早いことをもって早進と呼ばれた義賊で,墓といわれる遺跡も現存する。元禄2年奥州紀行の芭蕉一行は,日光北街道(棚倉街道)沿いの当村を避け,黒羽郊外余瀬の芭蕉の知人翠桃宅で,「尋ルに火を焼付る家もなし 曽良,盗人こはき廿六(とどろく)の里 翠桃」と連句しているが,一行は日光の仏五左衛門から轟早進のうわさを聞いたとも考えられる。定助郷は日光街道今市宿へ出役。天明7年の御救金拝借帳によれば,極難者14軒・64人に1人につき92文ずつ下附されたものを,さらに全戸38軒で人別割に軒別割を加味して配分している(いまいち市史)。文政6年には神領組1番に当たる売木人が2名いた。二宮尊徳によって日光仕法が開始された嘉永6年の家数26・人数117,馬数18,反別46町8反余,荒畑21町余,起返地20町余(全集)。幕末期の当村は人口の減少や荒地が増加して疲弊をきわめたため,二宮尊徳による一村式仕法の対象となり,荒地の起返し,用水路工事,道路普請,家屋などの施設の改善,本業出精人の表彰,困窮人の救済,無利息金の貸与など総合的な村政の立て直しがはかられた。安政2年から慶応2年まで12年間に及ぶ仕法で,潰農家25戸のうち4戸が復興をみている(いまいち市史)。また大谷川から取水された芹沼・町谷・轟の3か村用水である黒石堀は今も地内の田を潤している。神社は字北川にある村社高尾神社・荷渡神社のほか,無格社の八坂・愛宕神社がある。また字梅ケ沢にあった浄土宗運貞寺は,累年空寺になることが多く,明治8年秀葉舎の創立に際し廃寺となった。明治4年宇都宮県を経て,同6年栃木県に所属。明治初期の「地誌編輯材料取調書」によれば,村の広さは東西約1,250間・南北約1,110間,寛文年間から明治8年までの総反別は47町余,うち畑44町2反余・屋敷2町5反余,高230石,明治9年の地租改正総反別は227町余,うち田17町6反余・畑32町余・宅地2町余・平林86町余・山9町余など。また,明治8年の戸数28・神社2,同10年の人口215,うち男103・女112,馬53,荷車4,物産は明治9年前後3か年の平均収入額として,米130石余・麦46石余・小麦28石余・稗26石余・大豆5石余・小豆3石余・ソバ6石余・芋478駄・荏22石余(同前)。明治8年芹沼新田・芹沼村・町谷村・大渡村・川室新田と連合して運貞寺に創設した秀葉舎は,同20年轟尋常小学校となる。明治22年豊岡村の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7279891