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東泉村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。塩谷郡のうち。はじめ那須衆岡本氏領,正保元年幕府領,寛文5年那須衆福原氏領,のち烏山藩領,元禄元年幕府・旗本本多氏の相給を経て,同10年からは旗本伊沢氏・本多氏の相給。村高は,「慶安郷帳」419石余(田339石余・畑79石余),ほかに鏡山寺領50石(田38石余・畑11石余),「元禄郷帳」574石余,「天保郷帳」588石余,「旧高旧領」575石余(伊沢氏領235石余・本多氏領289石余・鏡山寺領50石)。「改革組合村」では川崎反町村組合寄場に属し,天保年間の家数45。天正19年那須衆岡本正親が泉城へ移住し,当村は和泉郷の城下町として発展をとげ,慶安4年には泉町と称されるほどになった。城下町の地名としては,高城・御屋敷・宿内・松並・東柳町・西柳町・田町前・田町後がある。しかし,正保元年岡本氏が改易となると,帰農する家臣54名に,上役28人は各10石,下役26名は全体で265石の土地が分与されたという。寺社は,慶長2年開山の曹洞宗心月山鏡山寺,同寺末の曲淵山瑞雲院(俗に上寺【かみでら】),字宿内の箒根神社(矢板市史)。享保4年入会地上河原をめぐり当村と田野原村とで境界争論となったが,新左衛門原は当村内とし,上河原を等分分割することによって落着した(和泉落城由来記)。文政10年当時の名主喜兵衛,組頭四郎右衛門,百姓代彦兵衛,ほかに売木業は田上屋弥市(矢板市史)。「ウハッキウ(迷わずして彼岸に至る)」の梵字の烏八臼を組み合わせて作字したという施入供養の文字のある道石標がある(矢板市史)。明治4年宇都宮県を経て,同6年栃木県に所属。同7年永清館が開校。明治22年泉村の大字となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7280430