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簗田御厨(中世)


 平安末期~室町期に見える御厨名。梁田郡のうち。同郡の全域を指したものと考えられる。現在の足利市域のうちで渡良瀬川の矢場川とに囲繞された低平な地域に比定される。伊勢神宮領。建久3年8月の伊勢大神宮所領注文(神宮雑書/近代足利市史)に「下野国簗田御厨二宮〇給主検非違使義康所田件御厨,以往建立内宮御領,去康治二年立券二宮御領,其後天養元年被下 院宣,永万元年両度被下宣旨也」と見え,康治2年に伊勢神宮の二宮(内・外二宮)の所領として立券された正式に御厨となり,その御,天養元年の院宣,永万元年の宣旨が下されたことが明らかである。給主として足利義康が任ぜられており,足利氏が絹・綿・白布などの上納物を伊勢の二宮へ送進していたと考えられ,源義国(義家の子)が久安6年に勅勘により足利へ下向する以前に,すでに義国を現地の荘官(下司ないし給主)とした荘園の経営が発足していた。御厨では伊勢神宮の勧請が行われ,伊勢神宮の末社神明宮が御厨には分布している場合が多い。足利市の旧梁田郡地域には7社の神明社(うち2社は御厨神社)が分布しており,これによって,ほぼ簗田御厨の範囲を知ることが可能である(近代足利市史)。ところで下野押領使,藤原秀郷の流れをくむ藤姓足利氏は平安末期には「数千町歩の田地を領掌」して「郡内の棟梁」と称され,小山一族とともに下野の「両虎」として勢力を張るほどの実力を有しており,足利郡司として足利地方を地盤としていた(吾妻鏡)。源姓足利氏の現地土着によって両足利氏の対立は次第に顕著になり,ついに簗田御厨の知行権の争いとなって爆発した。すなわち,永暦2年の官宣旨案(久志本常辰反故集記/近代足利市史)によれば,相論の内容は神宮内において簗田御厨からの年貢物を収取する担当者である口入神主職をめぐる争いで,その対立は,荒木田元定―範明に対して,利光神主とその孫の宗元神主が行った知行権の侵害に始まり,康治2年頃から永暦2年に至る20年近くにわたって続いた。この間に現地の給主は,義国―義康―義国後家尼蓮妙―義清と変遷し,判決の結論においては根本領主である義国の起請文,その孫義清の陳状などにより元定―範明側が勝訴した。その発端において,元定と利光の両神主の対立は,現地における郡司藤原家綱(藤姓足利氏)と源義国(源姓足利氏)との対立でもあった。すなわち,給主に義国,口入神主に元定ということを認めない利光神主は,家綱と結びついてこれを妨害した。義国は院庁に訴えを起こした。結局,義国の寄文(寄進状)が決め手となって元定・義国側の主張を支持し,利光―家綱側の主張を退けた院宣が下された。義国は足利に土着する以前から足利・梁田両郡において所領経営に乗り出しており,郡司藤原家綱らと対立していた。簗田御厨の立荘をけめぐっても激烈な政治戦となった。互いに簗田御厨の知行権を主張し,それが神宮内部の対立と結びついて,中央での裁判に持ち込まれたのである(近代足利市史)。しかるに保元の乱後,義康の卒去により藤姓足利氏(家綱―俊綱―忠綱)が足利地方を支配するようになったが,治承・寿永の内乱を経て足利義兼が源頼朝の挙兵に応じてこれに従い,鎌倉幕府の創設に尽力して大いに栄え,一方,平氏方に味方した藤姓足利氏は滅亡するところとなり,足利地方(足利荘・簗田御厨)一帯は源姓足利氏の支配下に入った模様である。室町期に入ってからの簗田御厨については,応安元年8月3日の皇大神宮権禰宜承房契状(宝珠庵文書/近代足利市史)に「太神宮御領下野国簗田御厨〈庄号〉⊏⊐県郷事,於地頭職者,可為建長寺宝珠庵領之由,被成,将軍家御寄進状云々」と見え,神税として「毎年参拾余貫」が先例として皇大神宮へ進納されていたが,子細あるによって拾貫を毎年直納されるように契約されたとある。さらに寛正5年8月の禰宜荒木田神主永量譲与処分状(寛居反故帳/神領考証)によれば,「下野国足利庄簗田御厨廿八郷内,十四郷此□宮前神田半分,此間当知行分」と見える。しかし,同年月の輯古帳(神宮文庫蔵)には「下野国足利庄簗田郷」と見えており,実際には簗田御厨なるものは存在しておらず,旧御厨内の諸郷から伊勢神宮へ先例に従う形で何十貫文かが進納されていたことを示すものと考えられる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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