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余瀬村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。那須郡のうち。黒羽藩領。黒羽藩領知高書上によれば,すでに天正18年の御朱印として「余瀬」が見え,「道場・光明寺」とともに126石7升とある(県史近世4)。村高は,「元禄郷帳」126石余,「天保郷帳」217石余,「旧高旧領」では578石余。「改革組合村」では黒羽町組合寄場に属し,天保年間の家数10。慶応元年の家数22・人口87(男49・女38)。元禄2年松尾芭蕉は弟子の曽良とともに当地を訪れ,鹿子畑桃翠(翠桃)宅に宿をとり,歌仙を興行した。桃翠の兄で城代家老浄法寺図書(桃雪)も芭蕉の門人で,地内にはこの兄弟の墓がある。地内を通る関街道は奥州街道の脇往還で,白河藩の廻米を中心とする荷の往来でにぎわったが,奥州街道や西方の原街道との間で荷の取合いが盛んに行われた。元禄8年には白河(福島県)の問屋が白河藩主松平氏に奥州街道経由廻米の公許を求めたため,同年当村をはじめとする1町9か村および板戸河岸は,これに反対する訴状を出している(県史近世4)。「創垂可継」によれば,文化年間の反別田24町6反余・畑31町9反余,家数29,新田・中嶋の2か村の枝村があり,地内を流れる市場川は南東に流れて中川(那珂川)に流入した。天保14年の徳川家慶の日光社参の折,当村は日光街道今市宿の当分助郷を命じられている(同前)。安政2年の大地震で全壊した黒羽藩江戸屋敷の復旧のため,藩では板材木に専売制を取り入れ,ほかに漆・煙草・柏皮・鰯粕などの独占を図った。このため翌3年これに反対する全藩的な一揆が起こったが,当村ほか3か村の百姓からも家中高利貸・講・無尽の禁止や国産政策およびこれに伴う夫役強制の廃止などを要求する歎願書が出されている(同前)。江戸末期に白旗村を合併したと思われる。明治4年宇都宮県を経て,同6年栃木県に所属。神社には,加茂別雷命を祀る加茂神社(祭礼2月20日・11月23日)があり(黒羽町誌),ほかに伊弉冉命・軻遇突命を祀る愛宕神社(祭礼2月24日),大己貴命・少彦名命を祀る直箟神社(祭礼2月10日)がある(那須郡誌)。直箟神社はもと北金丸村地内にあったものを享保年間頃現在地に移したものという(同前)。寺院には真言宗帰一寺,新善光寺,修験光明寺,真言宗沢村観音寺の末寺蓮徳寺,浄土真宗西教寺があり,蓮徳寺は明治2年に廃寺となった。明治22年川西町の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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