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安中宿(近世)


 江戸期~明治22年の宿駅名。碓氷郡のうち。安中藩領。慶長年間中山道の伝馬制度の整備に伴い,中山道北側沿いの上野尻村内1町6反余の地と南側沿いの下野尻村内1町1反余の地をもって伝馬宿の取り立てが図られ,北側へ29軒,南側へ36軒,計65軒の家並みが作られて安中宿と定められた(安中市誌)。やがて,上野尻村・下野尻村のみならず,近接する谷津村をも包み込んで,中山道に沿って東西に,俗に「うなぎの寝床」と呼ばれた長い町並みができあがっていき,安中宿・上野尻村・下野尻村・谷津村を安中と総称するようになった。元和元年井伊直勝が新封3万石を与えられ,当時はすでに耕地と化していた安中忠政築城の安中城を再築して入城,安中城には以来譜代大名が入り,安中と総称される安中宿・上野尻村・下野尻村・谷津村は城下四町とも称された。このうち宿の機能を果たす安中宿は伝馬町とも呼ばれ,他3か村と異なり地子免許の地で,高付けはされなかった。なお「旧高旧領」は浄土宗大泉寺領40石をもって安中宿と記す。大泉寺には井伊直勝の母と内室の五輪塔があり,市重文に指定されている。また高札場に,もと牛頭天王と道中奉行石川忠房生霊の石社があったが,現在は安中3丁目に移されている。宿内では2・7の日の六斎市が立ち,絹・麻・木綿・古着・小間物・塩・茶・穀物が取引きされた。天保15年の安中宿書上によれば,同14年改めの家数64・人数348うち男161・女186・座頭1,ほかに当宿支配の新町があり,百姓家数20・人数83(男43・女40),彼らは宿方人馬役ほかを一切勤めないとある(同前)。天保13年の町並み絵図(安中宿本陣文書)から兼業も含めた職種別戸数をみると,本陣(問屋名主兼帯)1・脇本陣2・旅籠屋19・木賃宿2・農業15・鍛冶屋1・桶屋1・大工1・畳屋1・髪結2・湯屋1・煙草屋2・穀屋2・竹細工1・小細工1・質屋1・提灯1・豆腐2・温飩1・傘屋1・菓子3・居酒5・麦麺1・煮売5・塩肴1・果物2・味噌1・茶漬1・荒物5・薬種3・古着4・医師1となっている。中山道各宿の人馬役は50人・50匹が御定めであったが,安中宿は無高貧窮の宿駅ということで,25人・25匹の軽減をうけた時期が長かった。定助郷は19か村,助郷高合計1万714石,なお享保7年から寛政8年にかけての御大名様方御泊御休帳により参勤交代で本陣に宿泊した大名たちへの献上物をあげると,あゆ・うなぎ・どじょう・まるた・鮒・塩ひらめ・塩鯛・うど・わらび・竹の子・茄子・うり・ささげ・山いも・玉子・ふろう・いんげん・くいな・鴫・まんじゅう・菓子となっている(安中市誌)。なお幕末の改革組合村高帳では,甘楽【かんら】郡・碓氷郡の各一部から計31か村の組合の寄場となっており,高付けはなく,家数87うち谷津村分25とある。明治4年安中県,群馬県を経て,同6年熊谷県,同9年群馬県に所属。廃藩置県後,安中城内の区域は旧邸と呼ばれたが,明治5年旧邸を合併。同12年上野尻村・下野尻村・谷津村・常木村を合併。なお江戸期の各宿は,明治期に入ると駅を付されることになり,安中宿も安中駅と呼ばれた。「郡村誌」にも安中駅の名で見え,戸数361うち士族190,人数1,378(男660・女718),人力車40・荷車6,字新町に製糸場1,民業は男が農桑業72戸・工業7戸・商業37戸,女で織物・養蚕業127人,物産は蚕繭72石・生糸65貫目・蚕種紙450枚。同9年高崎警察署安中分署が置かれ,同19年碓氷郡警察署となる。明治11年には旧安中宿本陣内に碓氷郡役所が開庁。同12年原市村に碓氷社が設立されたのに伴い,安中駅内にも柳瀬組・安中組・城下組など加盟組合ができた。同16年碓氷銀行開設。同19年碓氷第一尋常小学校と同高等小学校を開設。同22年安中町の大字となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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