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板鼻(中世)


 鎌倉期から見える地名。碓氷郡のうち。元久2年と推定される年未詳正月30日の関東御教書写(榊葉集/続群2下)によれば,石清水八幡宮の安居頭役について,「且去年上野国板鼻別宮預所左衛門尉景盛令勤仕了」とあり,当地にあった板鼻別宮(現在高崎市八幡町にある八幡宮)の預所に上野国守護安達景盛がなっていたことが知られる。この板鼻別宮は,平安中期の天徳元年,村上天皇の勅命により石清水八幡宮を勧請したと伝え,源義家が奥州下向の途中同社に立ち寄り戦勝を祈願し,凱旋後同社を造営したといわれており,源氏とゆかりの深い神社であった。なお「八幡宇佐御託宣集」の奥書(大日料7-3)に「応永二二(四)年丁丑八月六日,以上州郡馬郡(ママ)板鼻八幡宮御本,於同郡長野本郷増長寺以小字早筆先写之訖」とあり,同社の蔵本を長野本郷増長寺で書写している。また永禄11年の武田家朱印状(竹林文書/県史資料編7)には「上州板鼻八幡宮□事,来秋被改祭祀等⊏⊐」と見え,当地八幡宮における祭礼の興行を武田家が奨励していることが知られる。地名の初見は,鎌倉末期頃成立の明空の撰になる「宴曲抄」の「南無飛竜権現千手千眼日本第一大霊験善光寺修行」の条には,「ふみとゞろかす乱橋の,しどろに違板鼻」と見え,武蔵から上野【こうずけ】を経て信濃に行く交通ルートを示しているが,武蔵児玉―鏑【かぶら】川―山名(高崎)―倉賀野(高崎)―豊岡(高崎)―板鼻(安中・高崎)―松井田と通過しており,この情景は何筋もの小河川が乱流し,何本もの橋が無秩序に架けられている様子を示している(県史資料編6)。当地の地盤は泥流層であるから(安中市誌),この記述もうなずける。室町期に成立した「浄阿上人行状記」には,正安2年11月22日に「到武州〈或上野〉板鼻」と見え一遍の事跡を求めて当地を訪れている(続群9上)。同じく室町期に成立した「義経記」には奥州に下る源義経が当地において上野国住人伊勢三郎を臣下にしたことが記されており(古典大系),また「曽我物語」では源頼朝が吾妻【あがつま】郡三原野から那須野の狩に向かう場面を「板鼻の宿より宇都宮へいらせおはします」と記しており,当地は宿場であったと推定される(同前)。また謡曲「鉢ノ木」では北条時頼が信濃から鎌倉への帰途,佐野(下野【しもつけ】)に着く場合を「今ぞ憂き世を離れ坂,墨の衣の碓氷川,下す筏の板鼻や,佐野のわたりに着きにけり」とあり,当地は筏が集結する水上交通の要地であったことが知られる(謡曲集/古典大系)。このように当地は東山道に沿い,碓氷川と小河川の合流点にあたる交通上の要衝であり,しばしば合戦も行われた。南北朝期の建武3年5月日の佐野義綱軍忠状写および同年12月日の佐野安房一王丸軍忠状写には「翌日廿三日板鼻合戦」「翌日廿三日同(上野)国板鼻合戦」とあり,斯波又三郎に属した佐野義綱が当地において合戦をしたことが知られる(落合文書/県史資料編6)。また,「太平記」巻39には上杉憲顕と宇都宮氏方の芳賀禅可の合戦において芳賀氏が当地に陣を張ったことが記されている(古典大系)。下って永享12年と推定される年未詳12月6日の安保宗繁宛長棟(上杉憲実)書状(安保文書/県史資料編7)には「与長尾左衛門尉令同道,板鼻へ着陣間」と見え,結城方与党である信州勢の出張を食い止めるため長尾景仲が当地に布陣したことが知られる。下って上杉顕定は当地にあった海竜寺で亡母妙皓禅尼の仏事を行っており,「談柄」によれば,「関東管領上杉顕定,文亀二年八月廿八日,於上州板鼻庄海竜寺,御老母青蔭庵月山妙皓禅定尼(ママ)十三回忌仏事之次第」と見え,また「玉隠和尚語録」には「就平上陽板鼻海竜禅寺」と見え,関東管領上杉氏が当地を重視していたことが知られる(信濃史料10)。永禄9年11月2日の安中景繁安堵状(板鼻長伝寺文書/安中市誌)に「板鼻之内長伝庵之事」と見え,当地内長伝庵に対して武田氏方の安中氏が寺領以下を安堵している。同10年7月朔日の武田家定書(市谷八幡神社文書/県史資料編7)には,武田方についた安中丹後守に対して「於板鼻之内弐拾貫文被相渡候」と見え,当地内の20貫文を宛行っている。同年12月11日の武田家宛行状(平石家文書/松井田町誌)には「為名田之替地,於于上州板鼻之内参貫文被下置候」と見え,平石兵庫助に当地内の3貫文を宛行っている。元亀2年7月2日の武田家朱印状(市川育英氏所蔵文書/県史資料編7)には「信州田口之本領相違候之間,為彼替,上州板鼻之内拾八貫四百五十文之所被下置候」と見え,加藤与五右衛門尉に対し,替地として当地内の18貫450文が宛行われている。天正6年と推定される□月24日の小森沢政秀宛上杉景勝書状(小森沢文書/同前)には「⊏⊐相拘候板鼻⊏⊐」と見える。天正11年と推定される年未詳6月4日の北条氏邦板鼻上宿掟書(福田文書/同前)は,当地の「〈上宿〉町人衆中」に出されており,当地に宿が形成されていたことを知りうるとともに,当時既に宿が上・下に分かれており,その発展の様子が知られる。また天正13年と推定される閏8月9日の北条氏邦判物(坂本郷文書/安中市誌)には,「伝馬次」として「板はな 町人衆中」と見え,安中・和田とともに町人衆中に伝馬役が課されており,当地の町としての発展をうかがわせる。なお,天正7年の年紀を有する「宗要集」の菩薩帖の奥書(昭和現存天台書籍綜合目録上)に「上州板鼻庄称名寺」と見え,また天正12年9月の年紀を有する「長溝法華経注」の奥書(同前下)にも「於板鼻称名寺書之畢」とある。天正13年9月6日の北条家掟書(大聖護国寺文書/県史資料編7)では,「〈板鼻〉大聖寺」にあてて禁制が出されており,当地が小田原北条氏の勢力下に置かれたことが知られる。なお,同寺は同18年8月3日の徳川家康制札写(成就院文書/同前)に「上野国臼井郡板鼻庄八幡宮大聖護国寺事」とあり,当地の八幡宮の別当寺であった。天正18年5月日の豊臣秀吉禁制(中沢文書/県史資料編7)によれば,「〈上野国〉下板鼻村」にあてて禁制が出されており,この時期既に板鼻が上・下に分かれていたことがわかる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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