板鼻村(近世)

江戸期~明治22年の村名。碓氷郡のうち。江戸日本橋から中山道14番目の宿駅で,板鼻宿と呼ばれた。はじめ前橋藩領,延享4年から幕府領。村高は「寛文郷帳」で1,224石余うち田方582石余・畑方641石余,「元禄郷帳」では「板鼻町」と見え1,301石余,「天保郷帳」1,378石余,「旧高旧領」1,375石余。寛政3年の御用留(福田家文書)によれば,宿高1,298石余,宿内間数9町14間,家数232,但し町並6間間口を1軒,裏町12間口を1軒として183軒半で伝馬役を勤め,ほかに宿並外裏家百姓家数57,問屋場2,問屋場へは15日交替で2人が勤め,本陣1,脇本陣1,飯盛下女を抱える旅籠屋43,ほかに茶屋15。また幕末の改革組合村高帳では,当宿ほか34か村組合の寄場となっており,高は寺領を除いて1,298石余,家数317。なお「旧高旧領」による寺領は天台宗称名寺27石余・曹洞宗長伝寺26石余・時宗聞名寺22石余。助郷は近辺の碓氷郡・群馬郡から28か村1,853石余,加助郷は群馬郡14か村で5,283石であった。定助郷28か村のうち25か村は正徳3年から,残りの3か村は宝暦2年から新たに定められた(安中市誌)。用水は宿の西方,中宿村北方の碓氷川から取水した板鼻堰を利用した。この堰は慶長年間の開削とみられ,元和7年までには八幡・剣崎・藤塚の3か村から上豊岡・中豊岡・下豊岡の3か村に至る下流まで7か村141町歩余が灌漑面積となっていた。碓氷川の川越え場所は,鷹巣山の南の崖下と中宿村の間で,貞享元年頃までにはなんらかの定仮橋があったとみられるが,宝暦2年夏期の仮土橋を架け,明和2年には道中奉行の命により年間の土橋を架けた。川越賃金については,相対では多分に問題が多かったため,文政13年公定賃金を定め,以後の基準となった。そして明治3年9月には船橋が架けられ,維持・修繕のため賃銭を徴集したが,同16年10月木橋が架かり,徴収は廃止となった。なお文久元年公武合体のため14代将軍徳川家茂の所へ嫁ぐ皇女和宮が板鼻宿木島本陣に宿泊している。宿内には多くの文化財があり,中山道沿いの字梅木にある享和2年木島七郎左衛門毘頼が建立した寒念仏橋供養塔,宝永5年金井氏が寄進した称名寺の鐘,一遍上人の開創と伝える聞名寺には鎌倉期のものとみられる笈や一遍上人のものと伝える持蓮華と麻製の袈裟,南窓寺にある上州和算の指導者小野栄重の墓,学習院長をつとめた医学の大家荒木寅三郎の墓などが県および市の史跡・重要文化財に指定されている。明治元年岩鼻県,同4年群馬県を経て,同6年熊谷県,同9年群馬県に所属。「郡村誌」によれば,戸数355・人数1,306,馬21,渡船4・橋船14,人力車78・荷車13,民業は男が農桑業293戸・工業20戸・商業40戸,女で織物養蚕業従事205人,物産は蚕繭753貫・生糸37貫余・生絹30疋・太織35疋・梨子1,335貫・瓜238貫・茄子1万9,850貫。明治15年の戸数476・人口1,590(安中市誌)。なお同18年の高崎~横川間の鉄道敷設にあたって群馬八幡~安中駅間の線路が板鼻地内の下町を通過している。同22年市制町村制施行による板鼻町となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7281543 |