岩松郷(中世)

鎌倉期~戦国期に見える郷名。新田郡新田荘のうち。初見は建保3年3月22日の将軍(源実朝)家政所下文(正木文書/県史資料編5)で,「将軍家政所下□上野国新田庄内岩松・下今居・田中参箇郷住人」とあり,当郷などの地頭職に新田義兼後家を夫の譲状に任せて補任している。貞応3年正月29日の新田尼譲状(同前)によれば,当郷はその後義兼後家(新田尼)からその孫時兼に譲られ,嘉禄2年9月15日に時兼は幕府から岩松郷地頭職に補任された(同前)。時兼は足利(畠山)義純と義兼女の間に生まれた子であるが,義純が新田を退去したため新田氏の庶子と遇され,祖母から当郷を譲られここを苗字の地としたものである。岩松氏は当郷以外にも荘内で多くの所領を譲られており,新田氏の中でも有力庶子として発展していった。岩松郷は岩松氏の嫡流の所領としてその後も伝えられ,弘安元年10月3日に時兼の嫡子経兼がその子政経に当郷などを譲っている(同前)。なお,2通の建武元年12月21日の尼妙蓮譲状案(同前)によれば,「とよわう」「たゝくに(直国)」を養子として「いわまつのひんかしのやしき」を各々に譲り渡している。応永22年8月10日の称光天皇御即位要脚段銭催促状(同前)によれば,公田数が東岩松1町3反30代,西岩松1町と東西に分かれて見える。享徳年間以降と推定される年月日未詳の岩松持国知行分注文,同じく年月日未詳の新田庄内岩松方庶子方寺領等注文などによれば,当郷はこの時も岩松氏の所領であった(同前)。なお,享徳4年閏4月吉日の新田庄田畠在家注文(同前)には「〈ゆわまつ〉いぬまの郷」とあり,犬間郷は岩松の古名であったと考えられる。寛正4年8月15日の岩松成兼寄進状(同前)によれば,新野(現太田市)の東光寺に「新田庄岩松郷之内金剛寺・同寺領等」を寄進している。金剛寺は当地にあるが,岩松直国が金剛寺殿と称しているので直国の開基によるかその菩提寺であろう。東光寺は持国の菩提寺とみられ,そのため成兼が寺領を寄進したと考えられる。なお,金剛寺については,年未詳11月26日の上杉朝良(建芳)書状(同前)には「岩松金剛寺并寺領」と見える。持国没落の結果,足利将軍の庇護をうけていた家純が新田に復帰する。家純は現在の太田市の金山に築城し東上州一帯を支配した。「松陰私語」第1によると家純は上杉方に味方して武蔵五十子に参陣するが,出陣の前に岩松八幡宮に参拝したという(県史資料編5)。現在当地に鎮座する岩松八幡宮は新田義重勧請と伝えられている。また同書によると家純の孫尚純の子昌純は岩松八幡御幣殿で元服したが,それは同家の佳例であるという(同前)。柴屋軒宗長の「東路の津登」によると,永正6年8月宗長は尚純(静喜)を訪ねて「岩松の道場」で連歌を興業したという(県史資料編7)。また,弘治3年8月の遊行上人29世体光の句集「石苔」によると,体光は岩松青蓮寺で興業した時の句を載せているのがみえる(県史資料編7)。「長楽寺永禄日記」永禄8年4月5日条(県史資料編5)には「岩松」の杉苗を長手に運んだことが記されている。天正8年正月20日の武田勝頼定書写(新田文庫文書/県史資料編7)によれば,上条(後閑)宮内少輔に旧領の「一,岩松之郷,七百貫文」などを与えることを約している。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7281692 |