大胡郷(中世)

南北朝期~戦国期に見える郷名。勢多郡のうち。地名としては鎌倉期から見え,「吾妻鏡」の文治5年7月17日条に「可有御下向于奥州事……北陸道大将軍比企藤四郎能員・宇佐美平次実政等者,経下道,相催上野国高山・小林・大胡・左貫等住人,自越後国,出々羽国念種関,可遂合戦」と見え,三手に分かれた奥州追討軍のうち比企・宇佐美氏の率いる北陸道の軍勢が当地などの住人を催して越後から出羽に向かったことがわかる(国史大系)。郷名の初見は建武2年6月19日の上野国宣(長楽寺文書/県史資料編5)で「□(上)野国大胡郷内野中村地頭職事」と見え,新田義貞が当郷内野中村の地頭職を長楽寺了愚上人禅庵に寄進している。また応安~康暦年間にかけて世良田長楽寺大通庵は当郷田畠・在家などを買得したことが,以下3通の請文より知られる。応安6年6月20日大胡秀重請文(同前)によれば「大胡郷神塚村内夏黒」の在家1宇・田1町・畠7反を秀重が,「塔島堂」の在家2間・田7反半を亡父性秀入道が,「堰口村」の在家3間・田8反・畠1反半を比丘尼了裕がそれぞれ沽却している。同年月日の汰弥道喜請文(同前)にも「大胡郷三俣村」と見え,在家2宇・田畠3町2反が沽却されている。また康暦3年4月5日の藤原政宗請文(同前)には「当国大胡郷三俣神塚村」「上泉村内杉木」と見え,田畠在家などが沽却されている。以上のうち国宣に現れる「野中村」は前橋市野中町に,「神塚村」は同市幸塚町に,「堰口村」は同市石関町に,三俣村は同市三俣町1~3丁目に,上泉村は同市上泉町に比定され,当郷の範囲が現在の前橋市域をも含むものであったことが知られる。享徳4年2月27日の岩松持国宛足利成氏書状案(正木文書/県史資料編5)には「昨日於深須・赤堀・太(大)胡・山上合戦之次第,注進具御披見候」とあり,享徳の大乱に伴う合戦が当地などで行われたことがわかる。永正元年と推定される年未詳3月15日の上杉顕定書状写(歴代古案/越佐史料3)では「上州大胡・小泉要害相攻之時,被疵之条,神妙に候」として穴沢次郎右衛門尉の当地などにおける戦忠を賞している。戦国期と推定される年月日未詳の上杉氏所領目録(彦部文書/県史資料編7)には「一,大胡庄之内」として宇坪井村(現前橋市笂井【うつぼい】町)・長安村(現同市上長磯町・下長磯町)・小屋原村・今居村・大島村・片貝村・小島田村などの現前橋市域にあたる村の名が見える。ここでは「大胡庄」と書かれているが荘園名は他の史料には見えず,「大胡郷」が正しいと推定される。以上の史料によって知られる当郷の範囲はいずれも現在の前橋市に属し,前橋市東部の旧利根川河道の低地帯(現在は広瀬川・桃ノ木川の流域面)に帯状に分布している。これに,史料上確認はできないが,現在の大胡町なども含まれていたと推定され,大胡郷は当時の勢多郡の西南部をしめる地域であった。上杉氏の関東進出以降,当郷は厩橋城に配置された上杉氏の武将北条【きたじよう】高広の支配下に置かれたと考えられる。永禄9年,金山城の由良成繁は上杉氏を離れ小田原北条氏に通じたが,永禄9年10月12日の由良成繁制札(奈良原文書/県史資料編7)には「大胡領三夜沢」と見え,現宮城村の三夜沢も大胡領に含まれたことが知られる。永禄9年と推定される年未詳11月10日の上杉輝虎書状写(内閣文庫所蔵富岡家古文書/同前)によると,小田原北条氏の上野進攻に対処するため輝虎は「一昨八日,大胡之地着陣」とあり,この後利根川を渡り武蔵へ進出した。天正5年9月16日の北条高広判物(奈良原文書/同前)には「三夜沢上葺奉加帳之事……大胡郷中心落之勧進,不可有相違候」と見え,当地に赤城神社上葺の勧進が行われたことが知られる。天正11年と推定される年未詳3月28日の芳林(北条高広)条書写(歴代古案/同前)には「覚」として「付,大胡・山上・田留・赤堀備之事」と見え,上杉氏方の北条氏が当地などの防備に当たっていたことがわかる。天正18年卯月日の豊臣秀吉禁制写(奈良原文書/同前)では「大胡領」に対し乱妨狼藉などが停止されている。在地領主大胡氏は「平治物語」では源義朝の郎党の中に見え,「平家物語」では足利忠綱に従っている(古典大系)。「法然上人絵伝」には大胡隆義とその子実秀が法然に帰依したことが記されており,実秀の館の図も見える(県史資料編6)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7281841 |