太田町(近世)

江戸期~明治22年の町名。新田郡のうち。はじめ館林藩領,寛永20年幕府領,のち甲斐府中藩領,寛文元年館林藩領,天和2年幕府領(郡村誌)。慶安3年の勢多郡新田領太田町御縄水帳(中村家文書/太田市史史料編近世1)では田12町2反余・畑19町3反余・屋敷9町7反余,ほかに除地として金竜寺4反・東光寺2反余・受楽寺3反余・長念寺2反,寺屋敷として弥勒院・円定院・長光院・無市坊分3反余がある。村高は,「寛文郷帳」で536石余うち田方211石余・畑方325石余,「元禄郷帳」650石余,「天保郷帳」681石余,「旧高旧領」683石余。太田宿の成立は寛永20年といわれ,安政5年の本陣休泊控(太田宿本陣史料/太田市史史料編近世3)によれば「正保二年ヨリ例幣使道太田駅ト唱フ」とあり,翌正保3年の例幣使街道制定以降その宿駅として栄えた。太田宿の長さは9町10間。寛永20年,往還の両側に間口7間・奥行30間の軒別地割がされたという。元禄14年の絵図では,奥行30間のうち表15間が家屋で残りは屋敷林になっている。西から上中下の3町があり,上町の西,八瀬川の対岸に川向,上町の西寄り北に大門がある。宿の両端には木戸があり宿中央の古戸道・母衣輪道との十字路に高札場がある。宿の家数は慶安3年157,宝暦7年131軒半,天保9年422,同14年406,文久2年464である。宝暦7年の屋敷軒数帳(岡家文書/太田市史史料編近世1)では上町北側29筆・22軒,同南側45筆・30軒,下町北側29筆・20軒半,同南側51筆・28軒,大門・横町22筆・23軒,川向10筆・8軒,合計131軒半。明和元年の家数書上帳(太田宿本陣史料/太田市史史料編近世3)には本陣1・脇本陣1・平旅籠14とあるが,脇本陣は座敷間数不足で平旅籠のうち7軒ほどは粗末なものであった。天保9年の町明細帳(同前)では家数422,ほかに寺8・庵1・修験3,人数1,710,ほかに僧10・修験4,馬17。同13年の家数人数書上帳(同前)には本陣1・脇本陣1・旅籠屋5・茶屋旅籠屋4とあるが,翌14年の例幣使道宿村大概帳(同前)では旅籠屋は大3・中3・小4と記されている。文久2年の宗門改帳(太田市役所蔵文書/太田市史史料編近世1)によると,家数464うち本百姓156・水呑百姓286・寺8・山伏3・庵1・恵比寿1・医師5など,人数1,980うち男975・女976・僧13・山伏3・神子3・恵比寿1・医師5など,馬7。太田宿には3・8の六斎市が立った。金山丘陵は元禄元年から将軍家の御料林になる。山中に生える松茸は寛永6年頃から幕末まで将軍家に献上され,金山御林守がその採取・発送・監視を指揮した。本陣橋本家は,太田草分け13戸筆頭の旧家で,元和8年将軍秀忠から本陣を命じられ,名主・問屋も兼ね,寛文元年には綱吉から金山御林守も命じられている。鎮守は春日神社。金山山頂の新田神社は明治8年創建。寺は,大島村・太田町内に300石の朱印地を持つ浄土宗大光院のほか長念寺・受楽寺・高野山真言宗東光寺・曹洞宗金竜寺。普化宗利光寺は武蔵青梅鈴法寺末で,もとは金竜寺支配であったが,その後虚無僧寺となり,正徳4年には支配をめぐって金竜寺との間で訴訟が起きている。明治4年廃寺。幕末の改革組合村高帳によれば,当村ほか49か村の寄場村になっており,高548石余,家数392。明治4年館林県,栃木県を経て,同9年群馬県に所属。同年上浜田村・東今井村を合併。明治11年新田郡役所設置。同22年一部が鳥之郷村・強戸【ごうど】村・韮川村・毛里田村に編入され,残余が太田町の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7281875 |