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木崎郷(中世)


 平安末期~室町期に見える郷名。新田郡新田荘のうち。南北朝期には村名でも見える。仁安3年6月20日の新田義重置文(長楽寺文書/県史資料編5)によれば,「らいわうこせのハゝ」に19か所にのぼる「こかん(空閑)のかうかう」を譲ることを定めているが,その中に「きさき」が見える。「らいわうこせ」は義重の第4子義季と推定され,その母に孝養をつくすよう定めている。また文中に「につたのみそう」を譲るともあるので,これらの空閑の郷々が最初の新田荘の実体と考えられる。下って,正和2年12月21日の覚義・妙阿田畠坪付注文(新田氏根本史料所収岡部福蔵氏旧蔵文書/県史資料編6)によれば,「弐段 きさきさかい,壱段 内きさきさかい」と見える。この文書は長楽寺旧蔵とみられ,妙阿が下江田村赤堀の在家・田を売却した時の売券の坪付注文である。覚義は岩松政経と推定され,妙阿はその妻であろう。南北朝期においては,観応元年12月27日の足利尊氏袖判下文(正木文書/県史資料編5)によれば,岩松禅師頼宥に対して「新田庄内木崎村安養寺〈義貞跡〉」などを宛行っている。木崎村安養寺は義貞の遺領とみられ,頼宥に与えられたものである。また義貞は安養寺殿と呼ばれており,義貞の菩提寺であったと考えられる。享徳年間以降と推定される年月日未詳の岩松持国知行分注文(同前)によれば,持国の所領のうちに「〈ゆら〉木崎郷」が見える。戦国期においては,「長楽寺永禄日記」永禄8年3月8日条に,「長手へ木崎之西海子苗三駄ツケノボス」,5月11日条に「定而木崎辺ニテ雨ニ可逢トスイナリ」と見える(長楽寺蔵/県史資料編5)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7282492