佐貫荘(中世)

鎌倉期~戦国期に見える荘園名。邑楽【おうら】郡のうち。讃岐荘・佐木荘とも書き,郷名でも見える。「吾妻鏡」文治5年7月17日条によれば,源頼朝は奥州進発に際し,軍勢を3手に分け,その1つに「北陸道大将軍比企藤四郎能員・宇佐美平次実政等者,経下道相催上野国高山・小林・大胡・左貫等住人,自越後国,出々羽国念種関,可遂合戦」と定めており,当地の住人などが北陸道大将軍比企能員・宇佐美実政に従った。この当地の住人とは,秀郷流藤原氏の流れをくむ一族で,淵名兼行の孫成綱がはじめて佐貫氏を称したという(尊卑分脈)。佐貫荘は,平安末期にこの佐貫氏が開発したものと考えられる。しかし,佐貫氏は宝治合戦の際三浦方に加担したため,敗れて所領を没収されたと推定される。弘長3年2月10日の恵信尼書状(西本願寺文書/県史資料編6)に「むさしのくにやらん,かんつけのくにやらん,さぬきと申ところにてよみはしめて」とあり,流罪が許された親鸞は越後国から常陸国に移るが,その途中の当地で三部経の千部読誦を発願しており,その場所を当荘板倉郷内宝福寺とする説もある。なお宝福寺の性信上人座像の底板裏面の銘文に「上野国佐貫庄板倉法福寺先師横曽根性信上人御影第三度御彩色畢,三度之時菩提 延文六年〈辛丑〉二月十八日」とあり,延文3年に同像の第3度めの修理が施されたことが知られるが,造立時期については宝福寺蔵の「性信上人縁起」によれば貞永元年とされる(板倉町史)。鎌倉後期以降「板倉法福寺」を中心として浄土真宗教団が活発に活動していたことがわかる(同前)。また,正応6年6月3日の年紀を有する「法華疏記第八私抄」の識語には「上州佐貫談所」と見え,当地に談所があったことが知られる。荘園名の初見は永仁元年10月6日の二階堂行貞寄進状(伊豆山神社文書/県史資料編6)で「上野国佐貫庄内板倉郷事」とあり,伊豆国走湯山権現に宝治合戦後与えられたと推定される当荘内の板倉郷を寄進している。一方,永仁3年12月21日の関東下知状(長楽寺文書/県史資料編5)によれば,幕府は,同年10月28日の太田貞康による大輪時秀からの「佐貫庄上中森郷内田陸段・在家壱宇・畠壱町肆段」の買得を認めているが,大輪氏は没落した佐貫氏の一族と考えられる。乾元2年5月6日の僧了見寄進状案(同前)によれば世良田の長楽寺に相伝の私領である「上佐貫庄飯塚郷内名田」1町を寄進している。また,文保2年3月27日の関東下知状(同前)でも,幕府は加治三郎左衛門尉(法名教意)女尼仙心の,佐貫氏秀からの「佐貫庄上中森郷内在家弐宇・田弐段・畠弐町八反」と佐貫願阿からの「同郷内畠弐段大」の買得を認めており,元応2年2月23日の関東下知状(同前)によれば,この尼仙心が,佐貫経信から「佐貫庄上中森郷内畠地五段」,梅原時信から「同庄梅原郷内田四段・畠六段」を買得していたことも知られる。嘉暦3年4月8日の三善貞広寄進状案(同前)によれば,前記の太田貞康の一族と推定される三善貞広法師が,「佐貫庄内高根郷内弘願寺」に当荘内の「名田畠在家等」を寄進しており,この寄進状案の奥にこの時寄進されたと考えられる弘願寺寺領注文案が記されており,当荘には「高根郷」「江矢田郷」「鳴島郷」「千津井郷」「赤岩郷」「鉢形郷」「羽継郷」「料米保」があったことが知られ,「料米保」は山田郷の寮舞保のことと考えられる。鎌倉後期と推定される年月日未詳の足利氏所領奉行人交名(倉持文書/県史資料編6)に見える「大佐貫郷」は当荘のうちと推定され,足利氏の所領であり,南北朝期には関東公方足利氏の本領となっている(内閣文庫蔵諸岡文書/同前)。なお,建武元年5月3日の後醍醐天皇綸旨(別符文書/県史資料編6)および同年8月29日の某氏政打渡鑒(同前)によれば,摂津親鑒の旧領である「下佐貫内羽禰継」が勲功賞として別府幸時に宛行われている。下って,南北朝末期の明徳2年7月2日の藤原氏女譲状(正木文書/県史資料編5)によれば,相伝の所領である「さぬきの庄うなねの郷たての村」の在家2軒・畠2町2反・荒田2町を松犬御前に譲っている。室町期の応永4年12月25日の弥九郎在家売券(同前)によれば,「佐貫庄羽継村大袋」の羽継弥九郎清広は,自分の知行する「江黒郷之内こんとうかはらの御堂かいとの在家」を明年の年貢2貫文で世良田の良清に売り渡している。下って,同33年12月19日の青柳綱政畠売券(同前)によれば,綱政は目(羽か)継大袋殿から売得した江黒郷近藤原村内の「畠一町年貢二貫文之所」を8貫文で江口方に売り渡している。なお,年月日未詳の小山氏所領注文案(小山文書/埼玉県史資料編5)に「一,上州 佐貫庄・淵名庄〈知行所〉」と見えるが,この注文案はその内容・成立年代が疑問視され,阿曽沼氏の所領を含みこむ形で,永徳2年の小山義政滅亡後,小山泰朝が小山氏を再興した応永年間以降に作成されたものという。明徳2年の年紀を有する諸供領臈次番付書(高野山文書8/大日古)の338臈・339臈に見える「上野国讃岐郷住人大田民部房性済」は前記の太田貞康・三善貞広と同族と推定され,一族が当荘内に分布していたことが知られる。このように鎌倉後期から室町期にかけて,様々な勢力が当荘内に基盤を持つようになっていた。荘内の郷々を支配した在地領主として,荘内の地名を苗字とした大輪・梅原・青柳・江口・内島・舞木氏などが見られるが,これらは佐貫氏の一族と考えられ,利根川左岸の高地や洪積台地を拠点とし,旧河道などの低地を開発して発展したものと考えられる。また前記のように「上佐貫庄」あるいは「下佐貫」とする史料も見られるが,前者は当荘の西半分,後者は当荘の東半分を指す呼称である。応永22年の年紀を有する鞍銘(上毛金石文年表)に「上野国邑楽郡佐貫庄仙石江庄主奈良原主膳助信(花押)」と,同31年5月日の年紀を有する池田氏所蔵鰐口銘(同前)には「上野国佐貫荘江黒笠木大明神鰐口也」と,同33年3月18日の年紀を有する日光中禅寺蔵釜銘(上毛及上毛人254)に「下野国日光中禅寺御穀釜 願主上州佐貫庄藤原朝臣河弥道度」と,享徳元年12月13日の年紀を有する厳島神社鰐口銘(明和村誌)にも「上州佐貫庄大島之郷厳島鰐口也」と見える。応永28年10月13日の鎌倉公方足利持氏感状写(神宮文庫所蔵喜連川文書/県史資料編7)には,「去九日於野州佐貫庄,対桃井左馬権頭入道并小栗輩合戦之時,抽戦功之条」とあり,佐野帯刀左衛門尉に対し,当荘における合戦の戦功を賞している。文安4年正月11日の聖護院門跡(道意)御教書(内山文書/同前)によれば,「上野国利根庄・沼田庄・佐貫庄・倉賀野門徒已下輩」が国中の衆会の会合や国の年行事の成敗に従わないならば注進するよう命じている。享徳3年,鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を謀殺して以降,関東では成氏方と上杉方に分かれて大乱となった。同4年7月13日の岩松持国所領注文(正木文書/県史資料編5)によれば,新田荘飯塚郷は,「依為近所佐貫庄江被押領了」とあり,昨年までは持国が知行していたが,当時は江口四郎の知行となっていた。なお,同年頃のものと推定される年月日未詳の新田庄知行分目録(同前)の「他庄江被押領地之事」にも「飯塚郷 佐貫庄へ押領」とある。当時,当荘を支配していたのは佐貫氏の一族舞木氏であり,享徳5年と推定される正月28日の足利成氏書状案(同前)によれば,岩松持国をはじめ佐野・舞木・長井・蓮沼などの諸氏に対し,当荘への出陣を命じており,舞木氏は成氏方に属して戦っていたことが知られる。下って,長禄3年と推定される10月21日の高三郎宛足利成氏感状(高文書/県史資料編7)に「去十五日於佐貫庄羽継原合戦」と,同年12月26日の新田宮内少輔(成兼)宛室町将軍(足利義政)家御教書(正木文書/県史資料編5)にも「去(々脱カ)月十五日於上州佐貫庄羽継原合戦之時」と,翌寛正元年と推定される4月28日の尻高新三郎宛将軍足利義政感状写(御内書案・御内書引付/県史料中世7)にも「去年十月十五日,於上州佐貫庄羽継原合戦之時」とあり,10月14日の武蔵国太田荘における古河公方足利成氏と上杉房顕の合戦に続いて,同月15日には上野【こうずけ】国海老瀬口・羽継原で合戦があったが,御内書案によれば,4月28日の感状写とほぼ同内容の感状が上杉三郎・上杉右馬頭・上杉宮内大輔・上杉播磨守・上杉修理亮・毛利宮内少輔・矢部弥三郎・本庄三河守・長尾信濃守・飯沼弾正左衛門尉・石河遠江入道・飯沼孫右衛門尉・野沢弥六・三潴帯刀左衛門尉・池田太郎四郎・吉沢小太郎・中山左衛門三郎・渡辺孫次郎・後閑弥六・大類五郎左衛門尉・伊南山城太郎・行方幸松・長尾肥前守・長尾尾張守(景信)・長尾新五郎(景人)・芳賀忠兵衛尉・二階堂小滝四郎などに発給されており,上杉氏・長尾氏や越後の諸将に加え,上野の武士も上杉方についていたことが知られる(同前)。文明2年9月3日の伊勢大神宮庁宣写(神宮文庫所蔵氏経御引付/県史資料編7)に「上野国讃岐庄御厨本宮上分米」と年未詳9月3日の赤井宛伊勢大神宮禰宜(荒木田氏経)書状写(同前)にも「讃岐庄新御寄進皇大神宮御上分五ケ年事」とあり,当荘から5か年を限って毎年10貫文が皇大神宮に寄進されていたことが知られるが,後者の書状写の追って書きに「去々年分讃岐庄地頭赤井致用意」とあり,舞木氏の被官赤井氏が台頭して当荘を支配していたことが知られる。赤井氏は館林城を本拠としたため,以降館林が当荘の中心となり,戦国期には館林領と称されるようになった。文明3年と推定される2通の年未詳5月28日の豊島新次郎(泰昭)および豊島勘解由左衛門尉(泰景)宛上杉顕定感状(内閣文庫所蔵豊島宮城文書/県史資料編7)に「去廿三日上州佐貫庄立林要害中城攻落時」と,また同年と推定される年未詳7月2日の上杉修理大夫(政真)宛将軍足利義政感状写(御内書符案/同前)にも「将又攻寄上州佐貫庄立林・舞木城之刻」とあり,上杉勢が当荘内の館林城を攻め落としたことが知られる。なお,この時の様子が「松陰私語」巻2(県史資料編5)に見えており,「先年児玉塚退陣以後,公方足利庄御発向……大手者当庄之中大館河原郷八幡河原,搦手者左貫庄岡山原,大手・搦手其間二十五里也」と常陸・上総・下総・安房・下野【しもつけ】の軍勢8,000余騎が催され,「其後佐貫庄向館林城指寄取陣,彼城主者舞木方之被官赤井文三・文六是也」とある。下って,天文21年頃と推定される北条氏康書状(原文書/県史資料編7)には「向佐貫敵動候処,不移時日被懸付」と富岡氏に対して戦功を賞し,今後の軍忠を要請している。永禄5年2月9日,上杉輝虎は小田原北条氏に与していた赤井照景の拠る館林城を攻め,照景は同17日降伏し,武蔵国忍の成田長泰を頼り,館林城には足利の長尾景長が入城した(明和村誌)。永禄6年と推定される年未詳2月28日の長尾景長書状写(鑁阿寺文書/県史資料編7)には「先年戌歳,佐貫庄館林之地打入候付而者」と見える。また同年と推定される年未詳閏12月11日の上杉輝虎書状(保坂潤治氏所蔵文書/県史資料編7)によれば「甲・相両軍払散阿古陣,佐貫与足利之間陣取候歟」とあり,当地付近が上杉と小田原北条氏勢力の境にあったことが知られる。当地名は「長楽寺永禄日記」にも見え,永禄8年正月4日条に「熊寿殿(長尾顕長)へも佐貫(佐貫庄館林)ニテ越年留守ナレトモ,扇子ヲバマイラス」,同年4月7日条に「郁ハ軈而左(佐)貫ヘコユ」,同年5月23日条に「馬場弥六女自厩橋不図来,カノ者ハ童部之時,十三四之時分ウラレ,寺家ヲ出,マカベ・佐貫コゝカシコニ奉公シ」と見える(県史資料編5)。永禄10年4月20日の北条家裁許朱印状(原文書/県史資料編7)に「一,佐貫庄之内上郷五郷」とあり,当荘内の上郷は先年由良成繁が小田原北条氏に属した時,横瀬新右衛門尉が本領であると申し出たので安堵したところ,この文書の宛所と推定される富岡氏から本領であるとの申し出があり,調査したところ,同郷は50余年間富岡氏のものであったことが明らかとなり,小田原北条氏は横瀬新右衛門に与えた証文も無視できないとして,富岡氏に対して,西上州(上野国西部)で適当な替地を宛行うので今年と来年は半済として,巳年以降は上郷を富岡氏の所領とし,もし闕所がなければ巳年に武蔵か相模のうちで横瀬新右衛門に替地を宛行うと伝えている。下って,天正10年と推定される年未詳4月16日の滝川一益書状(滝川文書/同前)は「佐貫御城貴館」に宛てて武田氏滅亡のことを伝えている。同13年と推定される3月27日の長尾顕長判物(青木氏蒐集文書/同前)によれば,同年正月に佐野宗綱を下野国下彦間(現栃木県田沼町)で打ち取った豊島彦七郎に対して,その功を賞して「佐貫之庄須賀之郷之内」の3,000疋の地を任せ置いている。なお,当荘内では室町期から熊野御師の活動が盛んとなった。文明6年10月24日の先達職注文(熊野那智大社文書/同前)には「上野国佐木庄宝積房重代之先達之注文」とあり,「〈石内〉東林坊」「〈ムシナ塚〉円福寺」などが見える。同年月日の宝積房盛満旦那譲状(同前)では「上野国佐木庄大陽寺赤井之一族等其外名主地下共持分」を実報院に譲っている。また「廻国雑記」によれば,聖護院門跡道興准后は,同19年3月2日「さぬきの庄」「館林」などを経て佐野(現栃木県)に至っている(群書18)。下って,文亀2年3月19日の鳥井堪順旦那売券(熊野那智大社文書/県史資料編7)によれば「上野国佐貫庄,先達者阿古宇田幸蔵寺門弟引旦那名字共一円」を南光房に売り渡している。永正2年8月21日の旦那願文写(同前)には「上野国佐貫庄」とあり,新里雅楽助・同名大郎左衛門・つゝミ大郎五郎など7名の旦那が記され,先達は幸蔵寺であった。ついで,同10年6月日の道源旦那譲状(同前)によれば,執行法師舜の遺言に任せ鳥居から買得した「上野国佐貫阿古宇田幸蔵寺引一円」を花蔵院に譲っている。下って,永禄2年7月6日の某契状案(同前)によれば,「上野さぬき之事」とあり,「上さぬき」と「下さぬき」に分けて買券が作成されていたことが知られる。当荘内の寺院としては,大永2年11月12日の後柏原天皇綸旨(茂林寺文書/県史資料編7)に勅願寺として「佐貫庄内茂林寺」,弘治2年の年紀を有する胎問答沙汰の奥書(昭和現存天台書籍綜合目録上)に「佐貫光音寺」,尭雅僧正関東下向記録(醍醐寺文書/栃木県史史料編中世4)の永禄3年の第二度下向に見える「佐貫遍照寺」,永禄6年5月28日の広田直繁判物写(武州文書/埼玉県史資料編6)に「佐貫之吉祥院」,幡随意上人聖教奥書(大日料11-11)に「佐貫善導寺」などがある。当荘内として見える郷名としては,板倉郷・上中森郷・梅原郷・高根郷・江矢田郷・鳴島郷・千津井郷・赤岩郷・鉢形郷・羽継郷・大佐貫郷・うなねの郷・江黒郷・大島之郷があり,荘域は現在の館林市・板倉町・明和村・千代田町一帯に比定されるが,現太田市東部の飯塚郷・料米保も当荘内とも称された。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7282862 |