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猿ケ京村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。吾妻郡のうち。はじめ沼田藩領,天和元年幕府領,寛延2年越後長岡藩預り地,同3年から幕府代官支配に戻る。村高は,万治2年の175石余から,寛文3年の真田氏新検地で787石余に打ち出されたが,真田氏改易後,幕命による酒井氏貞享検地で249石余に修正された(平形家文書/県史資料編11)。なお「寛文郷帳」では村高175石余うち田方1石余・畑方174石余,「元禄郷帳」249石余,「天保郷帳」250石余,「旧高旧領」252石余。三国街道沿いの当村に関所が置かれていた。その設置年代には2説あり,寛永8年または万治2年というが,前者が妥当と思われる。沼田藩真田氏の頃には,給人格の者2人を関守とし,足軽12人が配置された。また当村のほか相俣・長井・吹路の計4か村から昼夜6人ずつの百姓が詰めていた。関所の構えは東西に門があり,東門を御門といい,西門を内御門と呼んだ。現在役宅1軒が残り,県文化財に指定されている。天明元年の相俣村との人馬継立方出入和解証文(笛木家文書/県史資料編12)によれば,当村にはもともと問屋場があり,相俣村問屋場と半月交替で往来諸荷物の請払いをしてきたが,明暦年間に潰れ天和年間と元禄年間の両度にわたって問屋場再建を願い,元禄5年許されたものの,宝永6年火災にあい再び相俣村に問屋を頼むことになったとしている。元文元年の当村ほか3か村家数人数改控(林家文書/同前)では,家数128,人数561ほかに出家2・山伏1,馬95・牛34。幕末の改革組合村高帳では,須川村寄場組合に属し,高250石余,家数90。明治元年岩鼻県,同4年群馬県を経て,同6年熊谷県,同9年群馬県に所属。明治元年頃の職業構成は65戸のうち20戸弱が運搬業・商業・飲食店・茶屋など宿場関連の仕事に従事していたが,当村は本陣の置かれた宿場ではなく,旅籠屋数などは少なかった(新治村史料集)。明治22年久賀村の大字となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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