柴崎村(近世)

江戸期~明治22年の村名。群馬郡のうち。はじめ高崎藩領,享保5年幕府領代官支配,延享2年から高崎藩領(郡村誌)。慶長初年に井伊氏による検地が実施された形跡があるが,検地帳は見つかっていない。村高は,「寛文郷帳」で906石余うち田方734石余・畑方172石余,「元禄郷帳」936石余,「天保郷帳」「旧高旧領」とも977石余。明治2年の高崎領村々家数人数取調帳(小島家文書/県史資料編10)によれば,寛政6年の高665石余・家数86軒・人数398人,明治2年の家数67軒・人数368人とある。また幕末の改革組合村高帳では,倉賀野宿寄場組合に属し,社領を除き高947石余,家数62とある。助郷は,中山道倉賀野宿へ出役,定助郷15か村の1つであった。白川・粕川・茶堀や長野堰分水の木村堰などの用水により灌漑したが,時々旱害に遭った。字西浦に鎮座する牛頭天王社は明治元年進雄社と改称。「旧高旧領」による朱印地30石。同社の由緒は不詳だが,北条・上杉・武田・和田氏らの中世古文書を伝え,また神代神楽用として伝わる面は室町期の作と推定されている。また字隼人の氏子たちにより獅子舞を伝承する。祭日は4月18日と10月9日,祭神は素盞嗚命・稲田姫の2柱。ほかに熊野社(祭神櫛御気野命,祭日10月9日)と稲荷社(祭神倉稲魂命,祭日は2月4日)の2社がある。寺院は真言宗下滝村慈眼寺末光明寺があり,創建年代由緒は不詳。明治2年高崎藩領の村々が年貢減免を要求した五万石騒動の折には,一揆勢4,000人が天王寺の森と呼ばれた進雄社へ集結したが,当村からも大惣代高井喜三郎以下70人の農民が参加した(大類村史)。同4年高崎県,群馬県を経て,同6年熊谷県,同9年群馬県,同11年群馬県西群馬郡に所属。慶応年間に水戸藩浪人小園江氏の塾が,明治初年には根岸氏の塾が開かれたが,明治10年に私立黒石学校が開かれている。一方,同8年には公立柴崎小学校が開校している(高崎市教育史)。同22年大類村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7282941 |