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下豊岡村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。碓氷郡のうち。はじめ幕府領,元禄11年から高崎藩領。延宝5年上豊岡村分村後の豊岡村が中豊岡村と下豊岡村に分かれて成立。ただし「元禄郷帳」「天保郷帳」では3か村合わせて豊岡村と記される。「旧高旧領」では村名が見え,村高747石余。なお元禄15年の検地による反別は,屋敷4町4反余・田26町4反余・畑30町4反余。中豊岡村内の当村飛地に,永承6年源義家創建と伝える豊岡若宮八幡宮,天文21年防村新左衛門開基の天台宗青眼山東光院薬王寺,慶長元年禰津心源常安開基の曹洞宗八幡山常安寺がある。「旧高旧領」により村内の常安寺領17石余。用水は板鼻堰の用水堀と烏川から取水する北久保堰の用水堀を使用。村の中央部を中山道が東西に走り,村の中心部で,中山道から北国往還(草津道)が分岐して北西に向かって延びている。この北国往還は鎌倉期既に開通していたと推定される。中山道は村の東端で烏川を渡り対岸の高崎に至るが,江戸期はこの烏川渡川のための伝馬役が当村など豊岡3村の大きな負担であった。烏川は以前は徒渡りか船渡りであったが,慶長7年高崎田町の茂右衛門・治郎右衛門の2人によって筏場橋という仮橋が架けられ,一定の料金を徴収して渡した。しかし夏季増水時には落橋することもあり,この際は船渡りとなった。船は明治初年まで使われていた。明治4年高崎の有力者によって本格的な木橋(常橋)が架けられ,同11年明治天皇北陸御巡幸の際一部を改造して君が代橋と命名された。これによって,村内の交通が一層発達した。なお江戸中・後期には,旅宿や茶店を営む者がでて,当村は宿場的様相を見せるようになった。幕末の改革組合村高帳では,高崎宿寄場組合に属し,寺領を除いて高729石余,家数の記載は欠く。明治4年高崎県,群馬県を経て,同6年熊谷県,同9年群馬県に所属。明治7年常安寺を仮校舎として豊岡3村共立の豊岡小学校が開校。同18年村内の北端部を信越本線が通る。同22年豊岡村の大字となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7283096