世良田郷(中世)

平安末期~室町期に見える郷名。初見は仁安3年6月20日の新田義重譲状(長楽寺文書/県史資料編5)で,「こせん」(世良田義季)に譲渡した「こかんのかう」(空閑の郷)6郷の1つとして見える。新田義重は同年月日の新田義重置文(同前)で「らいわうこせのハゝ」(世良田義季の母)に空閑郷19郷を譲っており,当郷など義季に譲渡された6郷もその中に含まれていた。当郷など6郷は義季の母に託され,母親死後は義季の単独知行の地とされたのである。当郷の地頭になった義季は,承久年間に長楽寺を建立し,鎌倉から栄西の高弟栄朝禅師を招いて初代住持とした。乾元2年5月6日の僧了見寄進状案(同前)には「新田庄世良田郷長楽寺」と見える。後鳥羽上皇は「東関最初禅窟」そのほか4面の勅額を下賜された。この勅額は,当寺が東日本における最初の禅寺であるということを意味する。長楽寺には常時500名内外の学僧が研学修行し,その中からは,日本禅宗の重鎮となったいく多の名僧を輩出した。長楽寺は周辺武士などから多くの帰依を得て,所領をも寄進されて,発展していく。世良田氏では義季の子頼氏が康元2年2月10日に「世良田郷内田〈一町四段在家一宇〉」を修正壇供田として寄進している(長楽寺文書観応3年3月11日長楽寺寺領注文,貞治4年7月5日長楽寺住持了宗寺領注文/県史資料編5)。弘安4年6月15日の長楽寺住持院豪文書注進状(長楽寺文書/県史資料編5)に「一,世良田宿在家日記」とあり,弘安4年以前から当地には宿があり,在家が建ち並んでいて,在家役が賦課されていたことがわかる。また徳治2年5月29日の源成経畠地売券案(同前)では,売買される畠地の所在を「上野国新田しやう中いま井のかうのうち,せらたのすく(世良田宿)のきたにほりこめのうち」と記しており,中今井郷内の畠地が世良田宿の北の堀籠の内にあり,中今井郷と世良田宿が境を接していたことがわかる。また同年2月11日の源成経畠地売券(同前)では売買する畠地の所在を「新田庄内中今井郷内成経知行分,世良田宿四日市場北並堀籠内」と記し,また同年月日の源成経寄進状案(同前)にも「上野国にんたのしやう中いま井の内,せらたの四日市のきたの野畠壱町壱反」と記しており,中今井郷と世良田宿四日市場が接していたことを示している。これらのことから,世良田宿と四日市は鎌倉中期には存在したと考えられる。市が発達し銭貨が流通するようになると,当郷などの在家年貢などは貫高で表示されるようになる。それと同時に,当地には裕福な商人が出現することになる。「太平記」巻10の新田義貞謀叛事付天狗催越後勢事(古典大系)によれば,北条氏が軍費を調達するのに,「新田庄世良田ニハ,有徳ノ者多シトテ」銭6万貫を5日内に納めるよう命じており,これは当地には有徳人(富裕者)が多くいることが背景にあったと考えられる。当地は利根川水運の分流の早川水運によって交通上の要衝になっていた。長楽寺が鎌倉末期の正和年間に火災にあい,再建されたが,その時功績を残した大谷道海なども有徳人そのものか,有徳人を使って流通過程に関与していた存在と考えられる。康永元年8月15日の鹿島利氏申状(鳥巣無量光寺文書/後鑑)によれば「元弘三年五月十二日馳参上野国世良田」とあり,新田義貞の挙兵の際,足利千寿王(義詮)に属すため当地に参上したという。鎌倉幕府が倒れ,南北朝内乱になると,当地は上野国全体の軍事情勢を左右する拠点の1つとなった。薩埵山合戦直前には「長尾孫六・同平三,二百余騎ニテ上野国警固ノ為ニ,兼テヨリ世良田ニ居タリケルガ」と「太平記」巻30に記されている(同前)。上野国警固のため,長尾一族が世良田に駐在していたのである。再建された長楽寺は,観応2年3月11日,寺領10か所を書き上げ,足利尊氏の御判をうけ安堵された(長楽寺文書/県史資料編5)。当郷地頭の世良田義政は延文4年4月10日「世良田郷後閑三木内〈作人〉子善後家在家壱宇〈田五段,畠弐町八段〉」を長楽寺に寄進しているが,これは同年月日の義政の売券によれば,了哲都聞に売却したものであった(同前)。了哲都聞(沙弥道行)は同地を本主売券・寄進状を添えて,長楽寺に寄進する同年4月20日付の寄進状をしたためている(同前)。同年4月16日現地では代官から長楽寺に渡状が書かれたが(同前),そこでは打渡物件を「世良田後閑内畠壱町弐段〈深町〉,堀内畠壱町六段,三木村田五段」と記している。当郷内には後閑と三木村があったことがわかるが,このうち三木村は現在の佐波郡境町三ツ木辺りに比定され,また康暦3年4月1日にも,世良田憲政によって「世良田後閑内畠一町作人藤五郎入道〈世良田長楽寺大通庵定道〉」が長楽寺に寄進されている(同前)。世良田郷は室町期に入っても,世良田一族の知行が続いていた。享徳年間以降に作成されたと推定される年月日未詳の新田庄知行分目録は,岩松持国当知行分,庶子等知行分,押領された分,とにわけて記載されているが,庶子の知行分の中に,「一,世良田郷・小角郷・二木村・世良田遺跡知行」と記され,同じく年月日未詳の新田庄内岩松方庶子方寺領等注文にも同様に見える(正木文書/県史資料編5)。「長楽寺永禄日記」にも当地名が散見する。永禄8年2月9日条によれば,長手の普請のときのこととして,「人足世良田ヘカヘリ度卜云モノヲハ注文シテカヘス」と見え,同年9月7日条にも「番・了・甫三人世良田ヘカヘス」と見える(長楽寺所蔵/県史資料編5)。天正18年4月日の豊臣秀吉禁制(長楽寺文書/同前)は「せら田」など8か所に対して軍勢甲乙人の乱暴・放火などを禁じている。現在の尾島町世良田から境町三ツ木にかけての地域に比定される。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7283328 |