善(中世)

戦国期に見える地名。勢多郡のうち。膳とも書く。長享元年と推定される年未詳12月18日の赤堀上野介宛上杉顕定書状(反町弘文荘集録赤堀文書/県史資料編7)に「去十四日長尾蔵人并佐野周防守同心ニ,善・山上取立候地へ差懸,終日相攻候処」と見え,享徳の大乱に伴い,長尾・佐野などの上杉方の勢に赤堀上野介が加わり戦功をたてたことが知られる。また当地には城が築かれており,永禄10年の由良成繁奉書案(安川繁氏所蔵由良文書/同前)では「善・山上之事根本者管領馬廻衆ニ候」と見え,当地を苗字の地とする膳氏は管領上杉氏の馬廻衆であった。戦国期と推定される年未詳7月7日の長沢彦右衛門宛由良成繁判物(長沢丑助氏所蔵文書/山田郡誌)には「去廿一日膳城向成勤之砌」と見え,当地の合戦における戦功を賞している。天正2年と推定される年未詳暮春(3月)10日の下野雞足寺宛北条高広書状(鶏足寺文書/県史資料編7)によると,「赤堀・善・山上・女淵属御手」と見え,同年と推定される年未詳3月13日の上杉謙信書状(西沢徳太郎氏所蔵文書/同前)にも「善・山上・女淵付落居候」と見え,上杉軍が善などの城を攻略したことがわかる。この年上杉謙信は越山して東上州の由良氏を攻めたが,善城などは由良方の属城であった。また同年と推定される年未詳3月27日の倉賀野尚行書状(吉江文書/同前)には「一瀬方為御使被指越候,善之地へ罷越,御使江懸御目」と見え,倉賀野尚行は当地を訪れ謙信の使者と会見したことが知られる。天正6年3月の上杉謙信の死により,厩橋城の北条高広は小田原北条氏方につき景虎を支持し,景勝方の押さえる沼田城を攻めた。翌7年5月6日の由良国繁宛北条氏政条書写(集古文書/同前)には「一,善之地之事,右去冬沼田本意以来属味方之間,一城并知行共ニ無相違善ニ申付指置」と見え,当地の城および知行を与えている。しかし,景虎の死により北条氏は景勝を支持した武田勝頼に従い,小田原北条氏に反した。天正8年と推定される年未詳10月9日の北条高広宛武田家覚書(山形県北条文書/越佐史料5)には「一,氏政至境目,出張之由候之条……自善□越河候之処,則時退散候様子之事」と見え,また,同年と推定される年未詳10月12日の上杉景勝宛武田勝頼書状(上杉家文書/県史資料編7)には「然而,小泉・館林・新田領之民屋,不残一宇放火,其上向善之地押寄」と見え,武田勝頼・北条高広などにより,当地の小田原北条氏勢は退けられたことがわかる。天正11年12月17日の北条高広宛行状(後閑文書/群馬県古城塁址の研究補遺上)には「善之内関分弐拾貫文出置候」と見え,後閑又右衛門に当地内所領を宛行っている。なお,室町期と推定される年月日未詳の実報院(米良十方主)諸国日那帳(熊野那智大社文書/県史資料編7)に「一,上野国」として「一,ぜん……何も壱円」と見える。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7283332 |