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薗田御厨(中世)


 平安末期~室町期に見える御厨名。山田郡のうち。園田・曽野田・僧野田とも書いた。「玉葉」承安2年11月5日条に「又先日所来臨之饗庭・薗田等御厨文書,返与兼光,薗田御厨事ハ可覆奏,於饗庭御厨者,有不審事,可問官之間仰了」と見え,伊勢神宮上卿をつとめていた右大臣藤原兼実が当御厨についての文書を左少弁藤原兼光に返し,覆奏するよう命じている。この文書は当御厨と新田荘の相論に関するもので,同書同年12月1日条に「一,祭主卿言上,上野国園田御厨司,訴申新田荘司義重妨事,仰,任度々綸旨,慥令対決」と見え,伊勢神宮祭主大中臣親隆が当御厨に対する新田荘司義重の妨げを朝廷に訴えており当御厨と境する新田荘内新田義重の勢力伸長に伴い伊勢神宮との間に相論が起こったことが知られる。建久3年8月日の伊勢大神宮神主請文写(神宮文庫蔵神宮雑書/県史資料編6)には「上野国 薗田御厨〈二宮〉○給主内宮一禰宜成長 件御厨去久寿三年建立,御封済所也,保元元年被下奉免 宣下也,供祭物〈内宮方布三十端并 勅願御封物等弁済之,外宮方同前〉」と見え,久寿3年に建立され,改元後の保元元年4月以降に公認されている。給主は内宮禰宜荒木田成長で供祭物として内宮・外宮両方に布30反と勅願封物を弁済している。建久3年の注文をもとに延文5年頃作製された「神鳳抄」には「〈二宮 各四丈布卅段 二百余町〉薗田御厨」と見え,200町余の規模であったことが知られる(神宮文庫/県史資料編6)。「三長記」建永元年7月29日条(大成)に「太神宮権禰宜成康申,園田御厨事」と見え,「経俊卿記」正喜元年4月19日の資宣の奏による「神宮条々」に「春日二位入道申,園田御厨事」と見えることからふたたび相論が起きていたことが知られる(図書寮叢刊)。延応2年5月27日の官宣旨案(随心院文書/県史資料編6)には「左弁官下 伊勢大神宮 応任当宮権禰宜荒木田成康譲状,永停止甲乙人向後濫妨,令権僧正厳海門跡進退領掌二所大神宮領上野国薗田御厨半分事」とあり,給主である荒木田成康が当御厨半分を子細あって随心院門跡に譲与したが,成康の死後その後家と随心院の権僧正厳海との間で相論となり,随心院から朝廷に訴えている。永仁5年4月30日の伏見天皇綸旨案(同前)には「上野国上薗田御厨事,任延応宣旨,門跡相承更不可有相違之由」と見え,同趣旨で元亨2年3月25日の後醍醐天皇綸旨案(同前)があり,同年5月16日の薗田御厨文書目録(同前)には「上野国上薗田御厨文書事」として弘安7年から元亨2年に至る8通の文書があげられている。随心院と荒木田氏との相論により当地は下地中分され,随心院側の所領が「上薗田御厨」と称されたと推定される。弘安元年12月8日の六波羅下知状(内閣文庫所蔵美濃国茜部荘文書/県史資料編6)では,美濃国茜部荘の雑掌と地領代との請所相論に際して傍例として「上野国園田御厨内広沢郷」について触れており,当郷はかつて請所であったがのちに領家に付されたことがわかる。「勘仲記」正応6年8月2日条(大成)には,「沙弥生心申,太神宮領上野国園田御厨并伊勢国散在田畠等事」と見え,沙弥生心が当御厨をめぐる訴訟の再審を申し出ているが詳細は不明。貞和5年8月28日の高師直施行状(諸家単一文書/早稲田大学所蔵文書下)には「上野国園田御厨内南品熊村半分事任御下文之旨,可被沙汰付教智,大炊右衛門尉為沙汰付之状」とあり,当御厨内南品熊村半分を教智の沙汰とするよう大炊右衛門尉に命じることを上野国守護上杉憲顕に指示している。至徳2年11月6日の浜名政信寄進状(雲頂庵文書/県史資料編6)では「寄進 円覚寺大義庵 上野国薗田御厨内東村上村事」とあり,当御厨内東村上村を円覚寺大義庵に寄進している。同寄進状によると同地は浜名政信の父朝経が勲功の賞として拝領したことがわかり,室町幕府奉行人布施家連・清原是清が裏書している。また同年12月26日の鎌倉公方足利氏満寄進状写(相州文書所収続燈庵文書/同前)で,円覚寺大義庵の同地の知行を承認している。なお応永27年4月16日の上野守護代長尾憲明遵行状(雲頂庵文書/県史資料編7)には「円覚寺大義庵雑掌申,当庵領上州園田御厨東村上村事」とあり,下地を雑掌に沙汰付すべきことを命じており,同地について相論があったことが知られるが詳細は不明。また応永15年2月9日の某基高寄進状写(大住郡妙楽寺所蔵/同前)では「上野国園田みくりやの内田三反」と見え,当御厨内の地が「しゆきよくしゆそ(首座)」に寄進されている。下って享徳の乱頃のものと推定される「上野国新田庄嘉応年中目録 持国当知行分」と冒頭に記されている年月日未詳の新田庄知行分目録(正木文書/県史資料編5)に「一,他庄江押領地之事」の8か所の中に「足垂郷 薗田庄へ押領 藤心郷 同前」と荘園名として見え,新田荘域にあった両郷が当荘に含まれるようになっていたことが知られる。室町期に成立し,その後書き継がれた「鶏足寺世代血脈」に「一,宥本号頓覚房,常州人也……於薗田庄察米金剛寺勤行伝法汀」とある(県史資料編7)。「松陰私語」第4(県史資料編5)によれば,岩松家純は「今淵名庄,園田庄,寮舞郷,新地之寺社之事,其方へ進置候」と,当荘など新地の寺社を松陰に与えている。明応年間頃と推定される年未詳4月5日足利成氏書状写(安川繁成氏所蔵由良文書/県史資料編7)には「寮米十郷并薗田上下事」と見え,横瀬信濃守の当知行を安堵しており,この時期には随心院領となっていた上薗田御厨もあわせて横瀬氏が知行していたことがわかる。天文5年7月27日の聖護院門跡御教書写(園田良祐氏所蔵文書/山田郡誌)には「上野国薗田七郷年行事職之事」と見え,嘉吉3年正月12日の奉書に任せて若王子前大僧正御房が先の職を領掌するよう命じており,当地は7か郷から成っていたことがわかる。また戦国期と推定される年未詳10月吉日の富岡氏宛と推定される北条氏康判物(設楽三郎氏所蔵原文書/県史資料編7)にも「知行方之事 一,曽野多 七郷」と見え,当地などが宛行われている。永禄7年9月12日の年紀を有する小金井東雲寺所蔵鰐口(太田市史史料編中世)には「上野国僧野田庄米山寺奇(寄)進之」と見える。渡良瀬川の右岸,桐生市南部から太田市北部にかけての地域と推定される。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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