高崎(近世)

江戸期の城下町名。群馬郡のうち。高崎藩の城下町。また城下町のうち3か町で中山道の伝馬役を勤めたため,高崎宿とも呼ばれた。高崎城下の原形は,慶長3年それまで箕輪に拠っていた井伊直政が,和田宿の地に大規模な築城をして移ったことにはじまる。高崎城は,戦国期の和田城の跡地を組み入れ,烏川の段丘上に構築された城で,三重の堀に囲まれていた。それら堀の外側には遠構とも遠堀とも称する堀や土居が設けられ,この内側を郭内と称した。郭内は,城に近いほうから武家屋敷・町屋・寺社が配置された。城門はじめ主要な建物は箕輪城から移され,武家屋敷は城を囲むように,上級家臣から二の丸・三の丸・三の丸堀外に配置された。遠構えを越えて郭内から出るには,常盤町口(中山道出口)・新喜町口(中山道口)・相生町口(三国街道口)・江木新田口(前橋口)・羅漢町口(大類口)・通町口(日光例幣使街道口)・前栽町口(片岡郡口)の7つの口があり,それぞれの口に置かれた木戸を通らねばならなかった。木戸にはそれぞれ番所があり,特に中山道の木戸は二重になっており警戒が厳重だった。また寺社は城郭防衛の機能を持つものとして重要視され,一部は城内に入れたが,多くは城下町の外周に配置された。神社では和田氏時代城の北にあった熊野神社・赤坂神社に加え,箕輪から津波岐那神社・布留明神・八幡宮・上諏訪社・下諏訪社を移した。寺院は和田氏時代からあった興禅寺・普門寺・竜宝寺・玉田寺・光明寺・覚法寺・善念寺に加え,箕輪から石上寺・竜広寺・慈上寺・正法寺・大運寺・法華寺・慧徳寺・延養寺・金剛寺・安国寺・大信寺など11か寺を移転させた。酒井氏の時代にも箕輪から向雲寺・永泉寺・法輪寺の3か寺を移し,安藤氏の時代に清海寺・良善寺・真応寺・真福寺・長松寺ができ,大河内氏の時代に威徳寺・大染寺が再興された。神社では大河内氏の時代に稲荷社・頼政神社が置かれた。一方町割りは,中山道を取り込んで行われ,旧和田城時代の住民と箕輪城下からそっくり移住した住民を合わせて城下町の基本を形成した。箕輪城の大手門前にあった連雀町が高崎でも大手門前に置かれ,連雀町の北に田町,南に新町が置かれた。職人の集住を基本型に,田町・連雀町・新町筋の1筋東に元紺屋町や通町など,1筋西に寄合町・鞘【さや】町など,これら東部の町に対して,北部には本町・椿町が置かれた。町並みはその後も随時整備され,赤坂村地内などを取り込み,主に城郭の南部と北部に伸張し,酒井氏の時代に北部の赤坂町,南部の新田町,東部の九蔵町が,安藤氏の時代に北部の南町,南部の前栽町(下横町)が,間部氏の時代に北部の四ツ屋町・常盤町,南部の新喜町(和田町)が,大河内氏の時代に北部の相生町・嘉多町,南部の職人町などが置かれた。城下各町のうち本町・田町・通町の3町が伝馬役を勤め,高崎宿の中心を形成した。本町は和田宿の頃からあった金井宿(城の二の丸赤坂中門の内)と馬上宿(城の二の丸南中門の内)が井伊直政の築城に際して城内に入ったため,両宿を北に移してつくられた町である。なお本町とは根本の町の意味である(高崎寿奈子/高崎市史)。中山道は,慶長3年の直政築城の頃は城下の東南から入って北に向かい,通町・九蔵町などの町並みを通り抜けて椿町で西に曲がっていた。椿町から本町に入り,赤坂の手前で北に向かう三国街道を分岐し,中山道はそのまま西に向かい赤坂を下っていた。その後,中山道は一路西の城寄りの連雀町・田町を通るように変えられた。伝馬継立を宰配する問屋場は,昔は本町のみに置かれ,本町は地子銭を免除されていた。寛永9年から,中山道が通るようになった田町・新町にも問屋継場を配分し,1か月を3町で分担した。本町が14日,田町が8日,新町が8日という割合であった(更正高崎旧事記/同前)。元禄7年高崎宿への助郷が幕府によって決められ,群馬郡の9か村,片岡郡2か村,碓氷郡1か村の計12か村が高崎宿へ人馬を供給することになった。正徳2年には群馬郡1か村が加えられ,定助郷13か村の助郷高は1万3,236石となった(同前)。元禄15年には高崎宿への加助郷として寺尾村以下19か村,石高8,707石余が定められたが,寛延2年日高村以下10か村が前橋領分となったため,これをけずり,代わって下大類村・西横手村・保渡田村が加わり,計12か村の石高は6,222石余となった。また天明2年寺尾村・下大類村が倉賀野宿への加助郷村となったため,これに代わって稲荷台村以下7か村が加わり,加助郷は計17か村,石高7,185石となった(同前)。中山道の宿建人馬数は50人・50疋がきまりであったが,高崎宿は城下町であったため,宿建人馬の数がほかの宿とは違っていた。安藤氏の時代はまだ宿建人馬について規定がなかったが,大河内氏の時代の元禄15年から本町・田町・新町の3伝馬町へ100人・100疋の人馬を常置するよう命じられている。しかし100人・100疋の負担は重かったので,明和年間に願い出て80人・80疋となった。さらに天明3年浅間山の大爆発により困窮したため嘆願し,5年間だけ50人・50疋に軽減された。同8年には高崎宿が城下町でもあり50人・50疋では支障をきたしたのか,再び100人・100疋を命じられた。これに対し3伝馬町は軽減を願い出て許され,宿建人馬は80人・80疋になった(同前)。他宿より余分の30人・30疋に対しては藩も助成金を交付している。3伝馬町はそれぞれ10人・10疋ずつを負担するが,1人・1疋あたりの助成金は,本町が人足2両1分・馬1疋4両2分,田町が人足1人1両2分・馬1疋4両,新町が人足1両1分9匁5分・馬1疋3両であった。なお高崎宿には,烏川沿いの常盤町口木戸の外に筏場があった。木曽あたりで伐り出された御用木や檜板・葺板は中山道を通って高崎まで運ばれ,筏場で筏に組まれ,烏川・利根川を下って江戸へ送られた。本町の名主はこの筏場にそれぞれの河岸をもち,本町の宿舎に泊まっている材木宿は河岸場で作業を行った。寛文4年本町・田町・新町に市が開設された。市日には冥加金として1戸につき3文ずつを領主に納めた。本町は繭・糸の市を3・8の日に,田町は絹・太織市を5・10の日に,新町は際物の市を2・7の日に開いたが(同前),本町・新町の市は次第に衰微し,田町の市はますます盛んとなった。「高崎寿奈子」には田町の繁昌について「市日五・十の日,毎月六日宛也,当国第一繁昌の大市なり……此町諸国商人大勢入込み,亭主々々も多くは他国の人なり」と見える(高崎市史)。こうして高崎の城下町は整備され,町屋が次第に増加し,大河内氏の時代には上野国第一の都会となった。城下町は,地子銭免除の3伝馬町と連雀町,もと武家地であったことなどの理由から無年貢地とされた職人町・鉦打町,唐沢年貢と呼ばれた地子銭を上納する15町に分かれる。家数と人数は,寛文5年328軒(更正高崎旧事記/高崎市史),貞享4年881軒・5,734人,享保5年1,358軒・5,735人,明和年間1,282軒・7,830人,天明4年1,411軒・6,458人,享和元年1,369軒・6,516人(高崎市史)。また安政3年の高崎町割古記録控(高崎市立図書館蔵文書/県史資料編10)では1,449軒・7,784人。なお明和元年の高崎城城郭・武具并城下町・所領明細書上(同前)では,侍屋敷185軒・足軽屋敷296軒となっている。明治2年版籍奉還により,最後の藩主大河内輝声は藩知事に任命された。同3年英学校を開校し,新時代に備えている。明治4年廃藩置県により高崎県となり,城内二の丸の建物を庁舎に当てた。県知事は任命されず,土佐出身の安岡良亮が大参事に任命され高崎県政を執った。同4年10月高崎県は廃され,岩鼻県ほか旧諸藩単位の県を統合して群馬県が成立する。このとき県名の原案は高崎県であったが,群馬県とかわった。城内二の丸に県庁を置いたが,高崎旧城が兵部省管轄になったため,同5年県庁は前橋に移った。同6年熊谷県が成立すると,前橋に支庁が置かれたが,半月ほどたった6月30日支庁は高崎に移った。同9年8月21日群馬県が成立し,高崎もこれに所属した。仮県庁が高崎の安国寺に置かれたが,手狭なので5,6か所に分散執務した。県庁を置くのに適当な旧高崎城は陸軍の管轄となり,東京鎮台の分営が置かれていたこともあり,さらに地租改正事務の繁忙,前橋の熱心な県庁誘致,県庁設置に対する住民の熱意不足などにより,同年9月仮県庁は前橋に移った。高崎では県庁舎移転は一時的なことで本庁は依然として高崎と理解していたが,同14年2月太政官布告第11号が発せられ,県庁は正式に前橋に置かれることになった。これに対し高崎住民は,約束違反だと大挙して前橋に押し寄せ,県庁奪還運動を展開した。これは自由民権運動とも重なり大事件となったが,ついに県庁は高崎にもどらなかった。明治期に入ると,旧宿場であったことから,高崎駅と呼ばれ,明治に新しく成立した町や名称の変更が行われた。旧城下町続きの地に歌川町・住吉町・高砂町・鎌倉町・若松町が成立した。また旧武家地にも町名が付けられ,堰長屋および城代組熊野町が堰代町,北郭が柳川町,赤坂郭が山田町,南部および大手前代官町が宮元町,馬上宿が明石町,和田郭が竜見町となり,新町は真町と改め,また通町筋から北通町が成立した。最初の小学校は高崎藩の学者市川左近の私塾を転用した鞘町小学校で,明治6年開校。同年四ツ谷小学校が,ついで大信寺に高崎小学校,延養寺に新町小学校が開校した。中等教育では明治10年に烏川中学校(第十八番中学校)が玉田寺に置かれた。また幼児教育では同19年幼稚開誘室が開設され,高崎幼稚園の前身となった。明治5年東京鎮台の分営が旧高崎城に置かれ,同17年分営は連隊に昇格,高崎歩兵第15連隊となった。以後太平洋戦争による敗戦まで高崎は軍都となり,日清戦争・日露戦争・満州事変・日中戦争・太平洋戦争と多くの将兵を送り出した。交通機関は,明治5年駅逓寮が東京~高崎間に郵便馬車を走らせ,郵便物を1日1回運んだが,のち広運社という乗合馬車会社になった。同9年矢島八郎は遊竜軒という馬車会社を起こし,盛んに旅客を運んだ。高崎~東京間の運賃は2円50銭,その後2円,1円40銭と下がった。所要時間は12時間だった(高崎市史)。同17年上野~高崎間の鉄道(高崎線)が開通した。1日3往復,所要時間は約4時間,運賃は特別3円38銭・上等2円・下等1円だった(旧県史)。中山道や利根川水系を利用した水上交通にかわって汽車が走り,高崎~東京間の交通が非常に便利になった。また同18年には信越線の高崎~横川間が開通した。明治11年7月郡区町村編制法が発布され,郡役所は連雀町に,戸長役場は元紺屋町の善念寺に置かれた。同18年地域を南北に二分し,柳川町以北の20か町の連合戸長役場が本町に,田町以南の23か町の連合戸長役場が宮元町に置かれた。なお明治14年片岡郡役所を合併,西群馬片岡郡役所と称した。同22年市制町村制施行による高崎町となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7283415 |