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多胡荘(中世)


 鎌倉期~戦国期に見える荘園名。多胡郡のうち。「吾妻鏡」治承4年12月24日条(国史大系)に「彼国多胡庄者,為亡父遺跡之間」とあり,当荘は木曽義仲の父義賢の所領であったことがわかる。なお「義経記」伊勢三郎義経の臣下にはじめて成る事(古典大系)によれば,「当国の多胡と申すところへ人を尋ねて下り候が」とあり,義経が奥州に下向する途中当地付近を通ったという。下って南北朝期の観応2年2月1日の将軍足利尊氏下文写(佐々木文書/県史資料編6)によれば,佐々木道誉に対して「上野国名(多)胡庄地頭職〈闕所分〉」などが勲功賞として宛行われている。ついで,同3年と推定される年未詳5月18日の将軍足利尊氏御内書案(同前)によれば,佐々木道誉から「多胡庄地頭職」などが押領されている旨の訴えがあり,尊氏は足利基氏に対し下地を道誉の代官に沙汰付けするよう命じている。しかし,なかなか実行されなかったらしく,文和2年12月17日の足利義詮御判御教書案(同前)によれば,当荘地頭職を押領しているのが神保太郎左衛門尉・瀬下宮内左衛門尉・小串四郎左衛門尉などの,当荘内あるいは当荘に隣接した地域の在地領主であり,前記の足利尊氏御内書案によれば,これらの在地領主は下文を帯しており,尊氏は替地については追って沙汰する旨を伝えており,南北朝期のはじめこれらの在地領主に当荘が宛行われたが,観応の擾乱に際して改めて尊氏から道誉に宛行われたことがわかる。そして,同3年6月7日の後光厳天皇綸旨案(同前)でも「上野国多胡庄」などは佐々木道誉に安堵された。明徳元年6月5日の左衛門尉信明譲状(中沢文書/大山村史史料編)および同年8月3日の中沢信明譲状(同前/県史資料編6)によれば,「多胡庄今泉田在家」あるいは「今泉村」と見え,同地などは武蔵国中沢郷を本貫とする中沢氏相伝の所領で,この時弾正信実に譲与している。今泉については永正4年6月12日の中沢道忍譲状(同前/新編埼玉県史資料編6)によれば,道忍が多胡本長に所領を譲与しているが,その中に「一,上野国多胡庄今泉田在家等事」が見える。なお,南北朝末期に成立した「神道集」の41上野勢多郡ノ鎮守赤城大明神事(県史資料編6)に「上野国多胡ノ庄」と見える。室町期の応永24年9月14日の将軍足利義持御教書案(佐々木文書/県史資料編7)によれば,佐々木高通が当荘地頭の所役である「上野国多胡庄後閑引絹事」について,在地領主が対捍していることを訴えていたことが知られ,早く沙汰をすることを命じるよう守護上杉憲基に命じている。下って,大永2年10月日の某制札(仁叟寺文書/同前)では,「上州多胡庄仁叟寺」における軍勢の濫妨狼藉を禁止している。永正17年と推定される年未詳12月24日の長尾為景書状(上杉文書/新潟県史資料編3)によれば,長尾房景に宛てて「但多胡之様体見渡候者,可被打越候,ともかくも任心中候,此方ハ多胡へこへ候て,一国取候しるし,隣国之覚も是訖(迄)申候間,明日ハ直小沢へ可打帰候」とあり,越中新荘で長尾氏と新保・椎名氏の合戦があり,在陣していた為景から当地にいたと推定される房景に参陣を促している。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7283488