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津久田(近代)


 明治22年~現在の大字名。はじめ敷島村,昭和31年からは赤城村の大字。明治22年字東宿の民家を借用し敷島村役場に充て,同43年字八幡に庁舎を新築移転した。同24年の戸数310,人口は男838・女787,学校1・水車場19。同32年棚下郵便局が廃され,役場南に敷島郵便局が開設され,上宿・下宿が村の中心となった。明治23年組合法に基づく共同製糸組合が設立され,同35年碓氷社に加盟,字六万に共同揚返工場を建設,釜数82基で操業,生糸200貫を産出,社員は80名。同43年組合員203名,130釜の碓氷社敷島組に発展。大正14年には製糸高562貫・売上高6万5,348円に及ぶが,昭和16年頃閉鎖された。昭和25年頃斎藤竹雄が地域の厚い軽石層を利用,軽量ブロック製造をはじめたが,軽石の質が悪く操業を停止,原石を秩父セメントにあて敷島駅から出荷した。昭和18年国鉄上越線敷島~岩本駅間の狩野地区に津久田信号所開設。第2次大戦中は軍需工場への通勤者が多く,定期券使用者の乗降が認められた。同23年津久田駅の開設,1か月の乗車人員416人・降車380人,収入2,539円。同27年渋川~深山間にバスが通うようになった。水利の便が悪く,特に山麓崖寄りの地域には大正3年頃から簡易水道が敷かれていたが,昭和4年関東水力電気佐々発電所建設によってますます不便となり,同年地域内に同社の援助により水道が敷設され,津久田水道組合をはじめ5組合が発足,衛生面も向上した。また水利の便が悪く家が密集していることから火災被害が多く,大正15年には字六万から出火,21戸を焼失,同年宿で出火,同地域内で17戸焼失,昭和22年赤城山を中心に集中豪雨をもたらしたカスリーン台風により,沼尾川が山津波を起こし,流失・倒壊家屋14戸,死亡・行方不明5人の大被害を受けた。同31年赤城村の成立により敷島村役場は廃されたが,同33年敷島に新築された庁舎に移るまで旧役場が赤城村役場となった。津久田人形舞台は享保18年頃から桜座と称する八幡宮の氏子によって運営されてきたもので今も受け継がれている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7283595