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利根荘(中世)


 鎌倉期~戦国期に見える荘園名。利根郡のうち。土井出荘ともいう。初見は正応3年3月30日の年紀を有する上野春名権現鐘銘(上毛金石文年表)で「上野国利根荘内臼根郷春名権現」とあり,当荘に臼根郷が含まれていたことが知られる。当荘は平安末期の康治2年8月19日に安楽寿院領として認められた荘園で,同年月日の太政官牒写(安楽寿院古文書/県史資料編4)には「土井出笠科庄」とある。この時の荘域は四至から現在の利根郡・沼田市一帯から隅田荘域(沼田荘か)を除いた地域と推定される。「土井出庄」は,嘉元4年6月12日の永嘉門院(瑞子女王)使家知申状并御領目録(竹内文平氏所蔵文書/県史資料編6)から地頭請所となっていたことが知られるが,その地頭は,正慶2年3月13日の沙弥具簡(大友貞宗)譲状案(大友文書/同前)に「豊後国以下所領所職等事……上野国利根庄以下国々処々所領所職等事」とあることから,相模国大友郷を名字の地とし,豊後国守護であった大友氏が当荘の地頭職であったと推定される。文和3年7月24日の大友氏時寄進状(吉祥寺文書/同前)には,「寄進 上野国利根庄青竜山吉祥禅寺 同庄内上河波村」と見え,氏時の兄氏泰が建立した臨済宗建長寺派の当荘内の吉祥寺に,当荘内上河波村を寄進している。貞治3年2月日の大友氏時所領所職注進状案(大友文書/同前)には「氏時当知行散在所領所職等事」の1つとして「上野国利根庄〈号土井出庄〉」と見え,当荘の異称が土井出荘であったことがわかる。室町期の中頃に成立した「義経記」には利根川について「此河の水上は上野国刀根庄,藤原と云(ふ)ところより落ちて」と見え,藤原も当荘に含まれていたことが知られる(古典大系)。応永7年7月24日の滝本東六郎左衛門旦那売券(熊野那智大社文書/県史資料編7)では,「とりい(鳥居)のゑもん」に対して「上野国とねのしやうのうちくや(久屋)のさいしやうとのゝひき一ゑん」などを23貫文で売り渡している。南北朝期~室町初期の当荘は,大友氏による代官支配がおおむね安定していたものと推定されるが,「建内記」正長元年5月30日条の裏書には「不知行所々内」の1つとして「上野国利根庄〈応永廿三年関東大乱以後,上野住人白旗一揆,以地頭職之御下知押領之,百廿貫〉」と見え,上杉禅秀の乱以後当荘は地頭職を得た白旗一揆勢によって押領されていたことが知られ,また当荘は万里小路家に120貫文の年貢を納める地となっていた(古記録)。同書嘉吉2年4月2日条には「上野国利根庄事,称十ケ年諸公事免除,白旗一揆及異儀,近年不済之間」と見え,公事を弁済しない白旗一揆に対して,守護上杉憲実に斡旋を依頼するため書状を送っている(同前)。同3年6月17日および18日条では故鎌倉那波上総介宗之若党榎本某が,北野社参詣のため上洛し,当荘のことについて時房に申したところによると,当荘代官職は先年故那波上総介宗之に契約の後,禅秀の乱と代官の死亡により打ち置かれていたが,上杉憲実が国内を治め白旗一揆の者も下知に応ずるようになったため,家門の代官として榎本某が関東管領の下知を得て当荘に入部し40余郷のうち12郷が下知に従い40余貫文の年貢を収め,そのほか年貢は森下の百姓に預け置いて上洛した。これより後は京都管領の下知が南禅寺長老の状を申し請い,これを上杉憲実に示して年貢徴収を期したいとしている。これに対して時房は,万里小路家に無断で代官と称したことを非難し,榎本某が所持している憲実の下知状の提出を求めた(同前)。翌18日,榎本某が持参した憲実の下知状は永享4年のものであり,那波方の誠意のなさを見抜いた時房は,同3年6月26日条に「利根庄代官職事,預松村宮内少輔,今日出補任也」とあるように,越後守護代で将軍義教の腹心であった長尾邦景父子と関係の深い松村宮内少輔を当荘代官職として補任している(同前)。また同日条に「京着百廿貫□(今カ)日中可致沙汰,是大所務帳百七十貫分帳感得之也」と見え,当荘代官職は120貫文で請負われたが,本来は170貫文の年貢を負っていたことが知られる(同前)。しかし,以降「建内記」には当荘のことは見えず,年貢徴収が行われたかは未詳である。文安4年正月11日の聖護院門跡(道意)御教書(内山文書/県史資料編7)には「上野国利根庄・沼田庄・佐貫庄・倉賀野門徒已下輩」に対して国中衆会・会合・年行事の成敗に従うよう命じているが,このころには荘園としての実体を有していたかは不明である。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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