中島村(近世)

江戸期~明治22年の村名。群馬郡のうち。はじめ前橋藩領,元禄9年高崎藩領,宝永7年前橋藩領,延享2年から幕府領(郡村誌)。村高は,「寛文郷帳」で250石余うち田方75石余・畑方174石余,「元禄郷帳」も同高,「天保郷帳」253石余,「旧高旧領」も同高。正徳2年の中島村検地水帳では,田方7町2反余うち上田1町1反余・中田1町9反余・下田2町7反余・下々田1町3反・下々下田1反余,畑方18町8反余うち上畑4町9反余・中畑4町4反余・下畑4町4反余・下々畑2町9反余・下々下畑6反余など,屋敷1町7反余(滝川村誌)。村内には下斎田村から入り宿横手村へ抜ける三国通り佐渡奉行街道と,宿横手村から板井村へ抜ける江戸道が走る。字屋敷添にある文化3年正月吉日銘の道祖神は江戸道に置かれたものである。用水は滝川および古川を使用。天明3年浅間山大爆発により吾妻【あがつま】川から利根川へ流入した溶岩泥流が,爆発から3日間,縦横5m・高さ3mの焼石の大きなものをはじめ岩石が流入し,耕地を埋め尽くし,厚いところで1.8mも堆積した。その結果田方・畑方はいうに及ばず,利根川沿いの全山林が泥で埋まり,その面積は村の8割に相当した。その後名主・組頭・百姓代以下全村をあげて復旧工事が進められたが,資金繰りが苦しく,隣村の下滝村の豪農天田善兵衛から120両の開発金を寛政3年正月に借用している。加えて打ち続く不作は農民を相当苦しめ,文政9年には岩鼻代官山本大膳へ出された免税願に,天明3年より免税してもらっているが,いまだ回復していないので,さらに5年間の免税を認めてほしいと願い出ている(同前)。天明年間から文化年間にかけて田口新右衛門,天保から明治初年にかけて木暮熊吉・蓮堂の経営する私塾があった(滝川小百年史)。地内には埴山姫命を祭神とする榛名社と須佐之男命を祭神とする八坂社とがある(郡村誌)。なお榛名社はもと相満社と称したらしく,明治15年社名を榛名神社にしたとの届け出が県へ出されているが,文化11年の扁額に「春名神社」,拝殿新築の際の文久元年の棟木書には「榛名神社」と記されている。また八坂社境内には幕末岩鼻代官所の高札が置かれた。このほか境内には,箕輪城主長野氏が武田氏により敗亡した際に,家臣の田口氏が当地に背負って逃げて来たものと伝承する虚空地蔵を安置する虚空蔵堂,古くから「失せ物」の救い仏と信ぜられていた如意輪観音像を安置した観音堂,天保6年村内の女人講によって創建された千手観音の堂があった。今は千手観音堂のみ残る。寺院には能泉寺があったが,文化13年焼失して六地蔵尊と境内の井戸供養塔を残すのみとなったが,明治40年頃までは村内の葬儀すべてが行われたという(滝川村誌)。幕末の改革組合村高帳では,玉村宿寄場組合に属し,高253石余,家数33。明治2年前橋藩知事管轄となり,同4年前橋県,群馬県を経て,同6年熊谷県,同9年群馬県,同11年群馬県西群馬郡に所属。子女は当初明治6年下滝村の慈眼寺に開校した多喜小学校,同11年からは西横手村の円福寺跡に開校した与児手小学校へ通学した。なお利根川を挟んで対岸亀里村・新堀村との間に渡し場があった。このうち新堀村小字赤石とを結ぶ渡しは,明治5年太鼓橋が架けられたが流され,その後舟橋となるが,大正15年福島橋の開通により廃止された(下川淵村誌)。明治22年滝川村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7283817 |





