花輪村(近世)

江戸期~明治22年の村名。勢多郡のうち。幕府領。村高は,「寛文郷帳」で畑方304石余,「元禄郷帳」557石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに558石余。文政8年の村明細帳によれば,年貢は金納であったが,小物成として,山銭永170余文・絹売出し永11貫375文・漆売出し永3貫100文・炭竈3口役永161文余・水車運上永250文・鉄砲役永250文,人数812うち男423・女389。宝暦6年の村明細帳(勢多郡誌)によれば,反別58町7反余,桑楮6,225束,百姓家232,馬60,諸職に大工3人,座頭・指物・木挽各1人,彫物3人,たたみ屋・馬喰各2人,銅蔵1,これは御用問屋に置かれたもので,現在も高草木家の屋敷内に残っている。また当村は毎月1・6・16・26日に市が立ってにぎわった。銅の継送り人夫役を課せられ,その勤方賃銭は,文政元年では永6貫474文余(高瀬家文書/勢多郡誌)。鎮守は,素戔嗚命・大己貴命を祀る三島神社,ほかに赤城神社・御霊神社などがある。寺院は,曹洞宗の祥善寺,その末寺とされる普門寺・松林寺があり,ほかに修験宗の光明寺がある。村の生活は,山寄りのため田は4反余にすぎず他はすべて畑で,男は農間期には炭焼き駄賃稼ぎ,女は糸挽きなどに従事した。天保7年の米価高騰のおり,当村など23か村の百姓1,500~1,600人が,大間々町に押し寄せ,麻屋・椛屋・穀商売の家を襲ったこともあった(赤城神社年代記・祥禅寺記)。村役人は,名主1・組頭5・百姓代1。文政8年の村明細帳には,特に有徳・大高持はいないとしているが,江戸中期には,江戸をはじめ県内の社寺建築の彫刻に優品を残した彫物師たちが存在したほかに十返舎一九の門に入り名をなした2世十返舎一九(本名糸井武,通称鳳助)は,この地の出身である。幕末の改革組合村高帳によれば,水沼村寄場組合に属し,高547石余,家数207。明治4年前橋県,群馬県を経て,同6年熊谷県,同9年群馬県,同11年群馬県南勢多郡に所属。「郡村誌」によれば,村の東西33町48間・南北3里14町28間,民業は男が農桑業171戸,うちかたわらに商業を行う者39戸・水車2戸・酒造3戸・旅店4戸,古着・質屋ともに8戸,漁猟6戸,女はすべて養蚕・製糸・縫織を農間業とし,馬55,物産は,米・豆・麦・黍・生糸,そのほか諸材木・炭・薪があり,出荷するものに生糸および諸木材・炭・薪などがあり,大間々町へ搬送したが,特に生糸は良質なものとして知られていた。明治6年祥禅寺を仮用して小学校を開設し,生徒数は男137・女87。同22年東村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7284200 |





