淵名荘(中世)

鎌倉期から見える荘園名。佐位郡のうち。関東平野北端の平坦部で,東側を早川,西側を粕川が貫流し,ほぼその間に挟まれた地域である。北部は赤城山南麓に連なって洪積台地となっており,南部は利根川によって仕切られている。初見は文永9年11月18日の長楽寺住持院豪置文(長楽寺文書/県史資料編5)で,「渕名庄政所黒沼太郎入道殿」に宛てて長楽寺大門北脇(二戸主半)の庵室【あぜち】所を与えることを約束している。当荘の成立の時期については平安末期にさかのぼると推定され,その荘園領主は,戦国期の文明10年8月日の仁和寺領文書目録(仁和寺文書/県史資料編7)の不知行荘園の中に「一結 淵名庄」とあり,天文2年11月8日の法金剛院寺領目録(法金剛院文書/同前)には仁和寺宮の旧記から抄出した法金剛院領の1つに「上野国 淵名庄〈田百九町五段廿五代,畠十八町二段十代〉」とあり,大治5年に落慶供養の行われた仁和寺の法金剛院であった。なお,秀郷流藤原氏の一族に淵名大夫兼行と称する人物が見え(尊卑分脈/国史大系),この人物によって開発され,この系統の藤姓足利氏に伝領されたと考えられる。現在の前橋市上泉町から佐波郡東村国定に及ぶ12kmの用水遺構女堀は,当荘開発のために開削したものという説もある(群馬県埋蔵文化財調査事業団編「女堀」)。治承・寿永の内乱で藤姓足利氏が没落してからは,鎌倉幕府の成立後,中原親能の子季時が淵名氏を称しており(大友系図/続群6上),当荘を与えられたものと考えられる。しかし,中原氏はなんらかの事情で没落したと推定され,年月日未詳の小山氏所領注文案(小山文書/埼玉県史資料編5)に「一,上州 佐貫庄 淵名庄〈知行所〉」とあるので一時小山氏が当荘の地頭職を所持していたと考えられる。下って,「鶴岡両界壇供僧次第」の良意の項によれば,良意は宝治2年2月足利義氏より「淵名寺別当職」を拝領しており(続群4下),正和2年12月23日には淵名寺領内善仏屋敷をめぐって同寺別当良尋と播磨局尼浄泉が相論し,この相論に対して北条高時が袖判の下知状で裁許を下している(東京大学文学部所蔵相模文書/県史資料編6)。淵名寺は不詳であるが当荘内にあった寺院と考えられ,鎌倉の寿福寺との関係が深く,尼浄泉はこの屋敷を霜月騒動の年(弘安8年)に拝領し,公事は寿福寺に送っていたが,正和元年公事が淵名寺に寄進され,その際良尋が下地までも支配しようとしたためこの相論が起こり,結局良尋が敗訴している。これらの関係から鎌倉末期には当荘は得宗領の可能性が強い(新田町誌)。なお,同寺に関しては,応永8年2月11日の鎌倉公方足利満兼御判御教書(東京大学文学部所蔵相模文書/県史資料編7)に見え,「淵名寺別当御房」に対し息災の祈祷を命じている。南北朝期の正平7年閏2月16日の南宗継奉書写(宇都宮家蔵文書/県史資料編6)には「走湯山造営料所上野国淵名庄事」と見え,同年正月20日に一円走湯山が領すべき旨の御教書が発給されたが,去年10月11日に新田大島讃岐前司義政が当荘を拝領しており,中分して下地半分を走湯山雑掌に沙汰付けするよう宇津宮氏綱に命じている。これに関しては,貞治3年と推定される年未詳9月4日の足利義詮書状案(三宝院文書/同前)の追て書きに「淵名庄半分事,早速可被請⊏⊐(取候カ)」と見え,年月日未詳の密厳院領関東知行地注文(同前)にも「一,上州 淵名庄半分」とある。一方観応3年5月日の香林直秀軍忠状(赤堀文書/県史資料編6)によれば,同2年12月16日に「上州淵名庄木島」で合戦,これは足利直義方の桃井・長尾軍が尊氏方の宇都宮軍に撃破されたもので,直義方の敗北が決まったことが知られ,直秀は当荘内での合戦など,観応の擾乱での一連の合戦における軍忠を注進し,「淵名庄内香林郷」の安堵を申請しており,足利尊氏の証判を得ている。また文和4年9月5日の将軍足利尊氏御判御教書(同前)によれば,赤堀時秀に「淵名庄之内香林郷三分弐方」を相伝の証文などに任せて安堵している。観応3年8月12日の足利尊氏寄進状(上野国満行寺文書/松雲公採集遺編類纂28)によれば,上野国満行寺(号榛名山)に「渕名庄内花香塚実相院」が寄進された。ついで,貞治2年12月29日の鎌倉公方足利基氏御判御教書写(相州文書所収荘厳院文書/県史資料編6)および同3年正月16日の上野守護代長尾景忠打渡状写(相州文書所収我覚院文書/同前)によれば,「上野国満行寺執行中納言大僧都頼印」に対し「淵名庄内花香塚実相院方」が安堵されている。菩提心論見聞第1の奥書(叡山文庫天海蔵/同前)に「嘉慶三年〈己巳〉六月一日,於上野国淵名庄波志江書写了」,第2の奥書に「康応改元七月十日,於上州淵名庄波志江賜師御本書書写了」,灌頂私見聞の扉書(昭和現存天台書籍綜合目録補)に「応永四年十月三日上野淵名庄中村華蔵寺了翁和尚御談義」,灌頂深秘決(同前)の奥書に「応永八年辛巳七月……於上野国淵名庄波志江賜件御本記之……定智」,支分灌頂決(昭和現存天台書籍綜合目録上)の奥書に「応永八年〈辛巳〉七月廿三日於上野国淵名庄波志江賜件御本記之」,三百帖見聞奥書(叡山文庫天海蔵/県史資料編7)に「於上州渕名庄中渕名殿有所書写畢……応仁弐年〈戊子〉九月廿二日」などと見える。なお,教相義案立は明応6年「三野 淵名庄殖木千年談所」において慶阿が書写したという(昭和現存天台書籍綜合目録上)。応永末年と推定される年未詳3月28日の足利持氏書状(榛名神社文書/県史資料編7)によれば,「淵名庄内花香塚郷田畠在家」などが榛名寺俗別当職とともに木部弾正左衛門入道道金に安堵されている。享徳2年以降関東では戦乱が激化した。同4年と推定される年未詳5月12日の足利成氏書状(赤堀文書/同前)では「淵名庄内当闕所事」と見え,戦乱がおさまってから訴訟するよう赤堀時綱に伝えており,長享2年と推定される年未詳3月26日の上杉顕定書状案(同前)では,当荘内の不儀の人の所領は,先の忠を復したのちに安堵する旨を赤堀政綱に伝えていることなどから,当荘一帯は赤堀氏の勢力下にあったと考えられる。その後,新田岩松氏がしばしば当荘に進出して戦闘が起こっている。「松陰私語」第4(県史資料編5)によれば,岩松家純は「今淵名庄,園田庄,寮舞郷,御地之寺社之事,其方へ進置候」と当荘内など新地の寺社を松陰に与え,それは「淵名庄内師郷之上之目」であった。なお永禄4年に成立したと推定される年月日未詳の関東幕注文(上杉家文書/県史資料編7)によれば,当荘の武士は新田衆に加えられており,この時期当荘域は新田領に加えられたものと考えられる。以降当荘園名は所見がなく,天正年間,当荘は西荘と称された。西荘は佐位荘・斎荘とも書かれ,初見は文和4年9月5日の将軍足利尊氏御判御教書(赤堀文書/県史資料編6)で「赤堀又太郎時秀申,上野国佐位之庄之内今井郷事」とあり,赤堀時秀を還補する旨を伝えている。なお「上野国新田庄嘉応年中目録 持国当知行分」とある新田庄知行分目録(正木文書/県史資料編5)には「他庄江被押領地之事」の中に見える北鹿田郷・小泉郷・花香塚郷・木島郷に「西庄へ押領」との注記が見られ,この地域は早川左岸の新田荘域の地がほとんどである。下って戦国期の永禄9年閏8月日の由良成繁・同国繁寄進状写(三方会合所引留/県史資料編7)には「為先年之立願,斎庄之内赤石郷,奉寄進之」とあり,先年当荘内赤石郷の地を伊勢神宮に寄進したことが知られる。天正13年11月9日の宇津木下総守(氏久)宛・太井備前守宛および高山遠江守宛3通の北条家朱印状(宇津木文書・富田仙助氏所蔵文書・群馬県庁所蔵文書/同前)には「五拾貫文 同心給,西庄来丙戌年貢より,倉賀野淡路守前より,可請取之」とあり,各々金山城の北曲輪・根曲輪・西城を仰せ付けられ,合計174貫文を宛行われているが,そのうち50貫文は同心給として倉賀野淡路守から当荘の翌年の年貢の中より受け取ることに定められていた。同14年9月3日の小島藤右衛門尉宛北条家朱印状(小島文書/同前)に「西之庄中村・赤石手作分之内弐拾貫文被下候」とあり,これも倉賀野淡路守より受け取るよう定められている。同15年8月6日の北条氏直判物(清水文書/群馬県古城塁址の研究補遺上)には「弐百四拾五貫四十六文 西之庄之分 茂呂郷之内」とあり,清水太郎左衛門に当荘のうち245貫46文など513貫561文が宛行われている。同年11月10日の北条家伝馬手形(須賀文書/同前)では「自西之庄小田原迄宿中」に宛てて,「伝馬五疋可出之,西之庄⊏⊐届□可除一里一銭者也」とある。ついで天正17年極月27日の北条家朱印状(宇津木文書/県史資料編7)によれば,宇津木兵庫助に対して,「西之庄之内一所」を宛行うことを約し,一層の忠節を命じ,来春郷村改めの上宛行う旨を伝えている。天正18年2月日の年紀を有する佐波郡東村大字国定の天台宗養寿寺の懸仏銘(上毛金石文年表)に「上州西庄国定村」と見える。なお,織豊期の天正20年2月27日の本多康重充行状(矢島文書/県史資料編7)によれば,矢島某に120貫文を宛行っているが,その内訳に「参拾石者西庄淵名郷」とある。当荘内の地名としては,木島・香林郷・花香塚郷・波志江・中村・師郷・殖木などが,また西荘内の地名としては,今井郷・北鹿田郷・小泉郷・花香塚郷・木島郷・赤石郷・中村・茂呂郷・国定村などが見え,当荘は佐位郡一帯が荘園化したもので,その異称として佐位荘が用いられ,新田荘側から見て西側にあるところから西荘とも書かれたと推定される(地方史研究191)。現在の赤堀村・伊勢崎市・佐波郡東村・境町あたりに比定される。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7284459 |