厩橋(中世)

戦国期に見える地名。群馬郡のうち。長尾景虎(上杉謙信)は永禄3年関東に進出,翌年北条氏を小田原に攻めたが,その際の参陣武将名を記した関東幕注文(上杉家文書/県史資料編7)に「厩橋衆」として長野藤九郎・長野彦七郎・大胡・引田伊勢守などが見える。この長野氏は箕輪城の長野氏と同紋(檜扇)で同族である。この長野氏については年月日未詳の実報院(米良十方主)諸国檀那帳(熊野那智大社文書/同前)に「上野国まへはし殿名字ハなかのと御なのり候へともいその上氏也」と見える。大永7年と推定される年未詳12月16日の長尾顕景書状(上杉家文書/同前)によれば,箕輪長野氏が総社長尾氏を攻めたとき,「厩橋宮内大輔」が長野方に加勢している。また,永禄10年の由良成繁事書案(由良文書/同前)によれば,天文10年善・山上両氏は金山城の由良氏を離れて「厩橋」についたとしている。このように厩橋長野氏は大永以前に箕輪から分かれて当地に独自の勢力をつくりあげていた。長尾景虎は永禄4年関東に侵攻,小田原城を攻めたが,攻略できず,その帰途鎌倉鶴岡八幡宮社前で上杉氏の家名と関東管領職を譲り受けて上杉政虎と名乗った。この時政虎は当地に入っているが,これ以後厩橋城は上杉氏の関東経略の拠点となり,政虎は越山の折にはほとんどここに入っている。また,京都から下向した近衛前嗣も政虎に随行して厩橋城に入った。厩橋城は長野氏の築城と考えられるが,江戸期の改造や利根川の浸食などによって戦国期の遺構は全く見ることができない。永禄4年の小田原攻略失敗以後,小田原北条氏の反撃や武田氏の西上州進攻で上杉氏は苦戦を強いられた。永禄5年政虎は再び関東に入って館林城の赤井氏を降し,佐野城を攻めたが,同年と推定される年未詳3月14日の佐野房綱宛北条氏照書状(涌井文書/同前)に「近衛殿厩橋へ引取申候事,為如何仕合候哉,承度候」,同じく同年と推定される年未詳4月2日の乙千代(北条氏邦)書状(逸見正夫氏所蔵文書/同前)に「憲政・政虎越国へ必定帰候由承候,殊厩橋焼候哉」とあって,政虎は憲政とともに急遽帰国した様子がうかがえる。政虎は厩橋城の城将として長野氏に代えて越後国刈羽郡北条【きたじよう】出身の北条高広を置いた。江戸期貞享元年編纂の「前橋風土記」には厩橋城主として延徳元年固山宗賢-道安-道賢-賢忠-前芸州大守芳林をあげ,宗賢から道賢までを長野氏として,賢忠を長尾氏とする(県史料集1)。芳林が北条高広である。江戸期の戦記類は長野氏と北条氏の間に長尾賢忠がいたとするが確認できない。北条高広の関東での活動は永禄3年から見られるが,厩橋入城は同5・6年であろう。永禄8年武田氏の西上州侵攻に対して,金山城主由良成繁は高広の要請で那波に出陣し,さらに厩橋内宿に在陣した(長楽寺永禄日記同年8月24日条/県史資料編5)。翌9年武田信玄は箕輪城を攻略,そのため厩橋城は武田氏の直接の脅威を受けることとなった。同年5月9日,輝虎は起請文(上杉家文書/県史資料編7)を書き,「越後・佐野之地・倉内之地・厩橋之地,長久無事事」を祈っているが,同年中に金山城の由良氏が小田原に通じて背いた。永禄10年と推定される年未詳正月7日の信玄書状(浦野文書/同前)によれば,「仍近日越利根川向ニ厩橋成動候」と見え,当地の攻撃を狙っていた。その結果同年3月には北条高広も小田原北条氏に通じ,輝虎は苦境に陥った。同年と推定される年未詳卯月7日の発智長芳宛山吉豊守書状(反町英作氏所蔵発智文書/同前)には「岩下・白井・厩橋口之御手ふさかり与申」とあって,苦しい事情がわかる。また同年と推定される年未詳12月2日の游足庵宛上杉輝虎書状写(歴代古案/同前)によれば,10月24日に越山して沼田に入り,「翌廿五,国中江出馬,始厩橋・新田・足利,敵城廿余ケ所打通,氏政陣所間近打懸候」とある。永禄11年と推定される辰の8月28日の武田家定書(陣外郎文書/同前)によれば,外良源七郎は当地から松井田へ移り給分を与えられている。永禄12年小田原北条氏と武田氏の同盟が崩れ,上杉氏と小田原北条氏の講和が成立する。この仲介に尽力したのは金山城の由良成繁であるが,北条高広も一定の役割を果たしたようで,同年と推定される年未詳2月29日の里見義弘宛上杉輝虎書状(中村文書/同前)に「先年北条丹後守以取刷一和之儀,様々雖申分候,悉皆表裏ニ而」と見える。結局3月には越相同盟は成立した。同年と推定される年未詳3月20日の原孫次郎宛武田信玄書状(漆原文書/同前)によれば,「南北和融落着,就之自厩橋向于河西,築取出之由候,然則無二出馬,遂一戦」とあって,武田氏は当地の動きを警戒している。こうして北関東の武将は再び輝虎に服することになった。輝虎は永禄13年3月22日に赤堀上野守に対し波志江郷以下6か所を与えたが,その中の「厩橋領・惣社領・白井領」の所領は除くことになっていた(赤堀文書/同前)。同年と推定される年未詳3月26日の北条氏康・同氏政連署条書(上杉家文書/同前)によれば,越相同盟の条件の1つとして北条氏康の子氏秀(のちの景虎)が輝虎の養子となって越後へ赴いたが,その途中の警固が倉内衆とともに「厩橋衆」に命じられている。ところがこの講和も長く続かず,元亀2年再び武田氏と小田原北条氏の同盟が成立したことによって破綻した。元亀2年4月16日の北条高定寄進状(前橋八幡宮文書/同前)によれば,「当地厩橋 八幡宮,御神領所々与無之故,御拝殿悉破候」と見える。この八幡宮は現在前橋市本町2丁目に鎮座するが,「直泰夜話」によればもとは天川原にあったという。厩橋築城に伴って現在地に移されたという説もある。北条高定は社殿荒廃の状況をみて寺領を寄進したもので,同日の北条高広寄進状(同前)では同社に諸役免除・地頭不入を認めている。元亀3年上杉謙信は越山して関東に出兵したが,同年正月27日の原孫次郎宛武田家朱印状(漆原文書/県史資料編7)によれば,「於厩橋与沼田之間往復之者,或討捕或生捕者,不撰貴賤可被加御褒美候」とあって,武田方が上杉方の連絡攪乱をはかっている。同年と推定される年未詳閏正月4日の山川晴重宛上杉謙信書状(山川文書/同前)によれば,石倉城を正月3日に落とし「同六日至当地厩橋納籏候」とある。石倉城は武田氏が厩橋城に備えて利根川対岸に築いたものである。このあと謙信は利根川を隔てて信玄と対陣したが,合戦には至らず下野方面へ移動した。同年と推定される年未詳2月16日の栗林政頼宛上杉謙信書状(栗林文書/同前)によれば,「南衆越河,向厩橋陣取之由」とあって,今度は小田原北条軍が当地に迫っている。また天正2年と推定される年未詳6月22日の武蔵羽生城の菅原直則宛上杉謙信書状写(歴代古案/埼玉県史資料編6)によれば,直則は当地まで使者を出して武蔵の模様を伝えており,謙信はこの年再度の越山を約している。同年と推定される年未詳7月26日の木戸忠朝・同重朝・菅原直則宛上杉謙信書状写(同前)によれば,「殊氏政向厩橋可出張由」とあり,氏政の軍が再び当地に迫っていた。その結果,謙信は再度越山し,東上州で小田原北条氏方の由良氏らと戦っている。天正5年9月16日の北条高広判物によれば,三夜沢赤城神社の上葺の奉加の勧進を「大胡郷」に行い,同じく同年9月吉日の北条景広判物では「厩橋郷」に行っている(赤城神社文書/宮城村誌)。郷名で見えるのはこの文書のみであり,この場合は大胡【おおご】郷に対応した用法と考えられる。景広は高広の嫡子であり,景広がこれ以前に家督を継いで厩橋城に入り,高広は大胡城に退いたものであろう。景広の家督継承は天正2年頃かとも考えられる。天正6年3月上杉謙信が病没,この直後高広は安芸入道芳林と名乗るが,謙信の死を契機に入道したものであろう。越後では謙信の死後御館の乱が起こり,北条高広は小田原北条氏と結んで景虎を支援したが,景虎は破れて自殺し,支援のため越後に入った景広も翌年2月に戦死した。その結果高広は再び上杉氏を離れ,景勝との盟約によって東上州に進出した武田勝頼に服属した。天正7年8月28日の北条右衛門尉宛武田勝頼定書(北条文書/県史資料編7)には「今度北条安芸入道,当方一味,併其方諫言故ニ候」とあり,同年11月12日の宇津木左京亮宛武田家定書(宇津木文書/同前)には「今度厩橋御計策之御使,令懃仕時宜入眼候」とあって,宇津木下綱がこの時仲介したことがわかる。天正10年3月武田勝頼が滅び,織田信長の部将滝川一益が関東管領と称して上野【こうずけ】に入った。「石川忠総留書」によると,一益はまず箕輪城に入り,ついで4月中旬に厩橋城に移って5月上旬城中で能を興行,6月11日には厩橋長昌寺において能を興行している(内閣文庫蔵/同前)。また,天正10年5月日の滝川一益定書(安中本陣文書/群馬県古城塁址の研究補遺上)によれば,厩橋から伝馬が定められていた。同年6月本能寺の変で信長が横死すると,一益は北条氏邦と戦って破れ上野を退去した。その結果今度は小田原北条氏が上野に進出,厩橋城の北条高広は一旦はこれに従ったものの,のちに上杉景勝の関東進出を期してこれに反抗した。天正11年と推定される年未詳2月19日の北条芳林(高広)書状(江口文書/県史資料編7)によれば,小田原北条軍は正月17日に来襲したが,利根川の流れにはばまれて攻め切れなかった様子がわかる。しかし,同年と推定される年未詳2月28日の栗林政頼書状(上杉家文書/同前)には「前橋南方へ致懇望,手ニ付申様風聞御座候」とあり,高広はこの頃には小田原北条氏方に通じていたという風聞があったようである。結局,高広は同年中に降り,厩橋城を明け渡している。これ以後,厩橋城は北条氏邦の持城となり,その下で在番衆が編成,配置された。天正11年9月24日の「ぬで島村牛込大善」宛北条家朱印状(牛込文書/同前)によれば,「厩橋ニ有之当郷之百姓,早々郷中へ可罷帰」とあり,百姓の人返しを許可している。人返しについては,天正17年12月5日の宇津木氏久宛北条家朱印状(宇津木文書/同前)にも見え,この時宇津木氏の所領福島郷から3名の百姓が妻子ともに欠け落ちしたが,うち1名は「厩橋城下」に,1名は「厩橋御領所公田郷」にいたことが判明,小田原北条氏は召還を認めている。天正12年2月12日の北条家朱印状(相州文書/同前)には「合五百六拾四人……厩橋之地ニ定置候」との文言が見え,厩橋城の在番の編成を指示したものと考えられる。また,宛所となっている上総入道(北条綱成)以下,遠山・木部・小幡・和田・高山・堀内などの人々が在城衆として配置されたものと考えられる。天正12年と推定される年未詳6月7日の毛利弥五郎(北条高広)宛北条氏照書状(江口文書/同前)によれば,「厩橋御城領千貫文」とあり,未進年貢催促の印判を写し送ることを報じている。毛利氏は厩橋城に在城した北条氏の旧姓であり,小田原北条氏に服属した折には同名を憚って毛利を姓としていた。同年と推定される年未詳8月13日の北条氏直書状(木内文書/同前)では,毛利弥五郎の同族とみられる毛利常陸介に亀山の砦の在番を命じている。その時「厩橋当番之内より指加候」とある。毛利常陸介は別の文書に見える大胡常陸介と同一人とみられ,大胡城主であったと考えられる。毛利氏についてはさらに天正12年8月16日に毛利弥五郎高広が厩橋八幡宮に対し安堵状を出し,天正15年7月18日にも同社に安堵状を出している(前橋八幡宮文書/同前)。天正12年と推定される年未詳8月12日の北条家朱印状(京都大学所蔵後閑文書/同前)によれば,碓氷【うすい】の後閑氏に対し着到次第によって厩橋城への集結を命じている。この頃は利根・吾妻【あがつま】の真田氏との抗争が激化しており,その軍事力を当地に集結させ編成したものであろう。また,年未詳3月16日の垪和康忠宛北条家定書写(相州文書/同前)に「一,厩橋留守中之儀能者を残置,厳密ニ用心可申付事」とあるが,130人の着到のうち30人は「請取之曲輪守」と決められており,小田原北条氏の軍事力編成がうかがえる。天正16年正月23日には,後閑宮内大輔に対し厩橋在城を命じるに当たって三か条の定書が与えられている(京都大学所蔵後閑文書/同前)。ところで,小田原北条氏治下の厩橋城には近隣の各武将から出された証人(人質)が集められていた。天正15年2月26日の北条家朱印状(宇津木文書/同前)によれば,伊勢崎の領主那波氏の証人替について「厩橋当番,安中七郎三郎・笠原越前両人ニ申断,可相替旨,被仰付候」とあり,同年10月10日の同朱印状(色部文書/同前)でも再び証人の交替が認められている。厩橋には小田原北条氏直轄領から年貢として集められた米・麦も貯わえられており,それらは所領の宛行とは別に軍役衆に現物給与されていた。すでに諸文書に「厩橋御城領」「厩橋御領所」などの文言が見え,厩橋城の周囲には特定はできないが城領が形成されていたことがわかる。天正14年11月17日の北条家朱印状によると,宇津木氏の鉄砲衆10人の給分100貫文のうち,41貫400文については「厩橋城米之内,大曽根・都筑前より可請取之」とあり,同16年12月7日の2通の同朱印状では,宇津木氏に対する御扶持・夫銭の40貫文余の給与が「厩橋御城米」および「厩橋麦」によって与えられている(宇津木文書/同前)。さらに,同年12月14日,同17年9月26日の朱印状にも「厩橋御城米」あるいは「厩橋麦」の文言が見える(同前)。天正18年豊臣秀吉の小田原攻めの際,上野には前田利家・上杉景勝の軍が碓氷峠から侵攻した。年月日未詳の北条家人数覚書(毛利文書/同前)によれば,北条氏邦支配の城に「前はし城」がある。厩橋城は松井田落城ののち,箕輪城につづいて同年4月中に降伏,開城した。「厩橋」の呼称については永禄5年と推定される年未詳2月28日の須田栄定書状(上杉家文書/同前)に「まやはしへ御馬入申へく」,同8年の「長楽寺永禄日記」8月25日条にも「マヤ橋陣ヨリ」とあり(長楽寺所蔵/県史資料編5),最初の「う」は発音されていなかった。なお妙安寺(前橋市千代田町)の梵鐘銘文に「上野国群馬郡厩橋一谷山最頂院妙安寺」と見える(前橋市史1)。これは年未詳であるが室町期まで溯及しうると考えられている。天正18年徳川家康が関東に入封し,厩橋には平岩親吉が3万3,000石を与えられて入城した。確実な史料で厩橋が前橋と表記され,「まえばし」と称されるようになるのは,小田原北条氏滅亡のこの年からである。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7284587 |