前橋(近世)

江戸期の城下町名。群馬郡・勢多郡のうち。前橋藩の城下町。天正18年小田原北条氏の滅亡により,豊臣秀吉から関東を与えられた徳川家康は,平岩親吉へ俗に関東四名城の1つと謳われた厩橋城を与えた。親吉の時代には,城地は利根川が西へ変流するあたりの要害地に築かれていたが,慶長6年親吉に代わって入封した酒井重忠は近世城郭として拡大・整備した。この整備をうけ,慶安初年には前橋城と改称した。平岩親吉が入城した頃,近世城下町の形成以前に,既に厩橋城近くに宿や連雀商人町が自然発生的に形成されていた形跡がある。金井と呼ばれたその宿の位置は,酒井氏時代の前橋城図によれば,三ノ曲輪東南に配置された曲輪が金井曲輪と呼ばれていることから,現大手町2丁目北東部にあたるかと思われる。また平岩親吉は,天正19年9月3日付の書状で前橋八幡宮別当に「御同宿中」と記しており,八幡宮門前の連雀商人町と宿が近接していたことを示している。親吉は城郭を整備して広小路などをつくり(直泰夜話),領内の検地も一部実施したようであるが,城下町整備の記録はなく,「木島家文書」を見ると,宿は中世以来の商人頭の木島氏に委ねられていたようである。慶長6年酒井重忠は入封と同時に米津権七郎・小泉正右衛門の2名を町奉行に任命しており(同前),城郭普請に伴い城下町整備にも着手したと思われるがその状況は明らかでない。ただ重忠の代には,城の大手門前に市場町の連雀町ができ,金井宿から東へ延びていた古利根川右岸台地の街道に沿って次第に町家が集まり,そこに城下町の中心本町が形成された。また元和8年頃と推定される藩主直書では,市中の放火狼藉など戦国の遺風を取締り,楽市を許しているが(前橋市史2),この頃には町奉行職は中絶しており,城下町の本格的整備は4代忠清の襲封する寛永年間に入ってからであろう。前橋城下町の検地帳は,享保17年以前は現存しないが,忠清の弟忠能が分封された伊勢崎藩では寛永19年の町検地帳(伊勢崎市立図書館蔵文書)が現存し,本藩前橋城下の検地もこの時期に実施されたと考えられる。寛永14年には奉行職が創設されており,寛永年代は藩の近世体制が整えられてくる時代であった。続いて寛文初年から同10年にかけて領内総検地が実施され,その状況の中で,「姫陽秘鑑」の忠清書状によれば,寛文4年喜兵衛・甚左衛門の両名が町年寄に任命され,勝山・福野の苗字と帯刀が許され,従来の2人扶持から4人扶持に増額されている。延宝9年前橋藩主となった忠明(のち忠挙)は,藩政に意を注ぎ,天和年間に石原市郎右衛門・和田十右衛門の両名を任命して中絶していた町奉行職を復活した(御役初并改之事/酒井家史料)。当時の町奉行支配町々御条目(姫陽秘鑑)には,町名主心得をはじめ市の作法・諸職人心得,また町人の藩士への対応や町人の城中への出入りなどの規定が見える。さらに同じく町奉行支配五人組前書(同前)には,商売・諸職の心得をはじめ,困窮商人への相互扶助などが示されている。なお町の統制にあたる町年寄役は勝山・福野の両家が世襲したが,文化4年勝山家に代わり松井家,同11年福野家に代わって武田家,そして勝山家が就任した。また市の統制には商人頭木島氏が世襲してあたった。忠挙の代に発展の時期を迎えた前橋城下は,貞享元年の「前橋風土記」によれば本町・連雀町・田町・銀町(白銀町)・鍛冶町・片貝町・中川町・天川新町・十八郷町・紺屋町・榎町・茅屋町(萱町)・板屋町・諏訪町・下之町・広瀬河岸・細沢新町・細沢町,向町の19町があった(県史料集1)。これらの町地はもと城地周辺の天川原村・天川村・前代田村・岩神村・清王寺村などの一部で,町割りにより城下町に編入された。天川原村からは本町・白銀町・鍛冶町・萱町・紺屋町・片貝町・榎町・十八郷町,天川村からは天川新町・中川町,前代田村からは田町・連雀町・板屋町・下之町,岩神村からは向町,清王寺村からは諏訪町・細ケ沢町・細ケ沢新町・広瀬河岸が成立した。のちには田新町・諏訪新町などが成立し,天川村内に天川町が形成されて町分となり,また下之町が竪町・横町・桑町に分割するなど,城下町数の増加を見た。ただし文化10年広瀬川左岸に位置する向町・細ケ沢・細ケ沢新田・広瀬河岸・諏訪町は,前橋総町の祭礼である祇園祭の屋台・飾物などの負担ができないとして町分を離れて郷分となり,文政6年まず向町・諏訪町が復帰,嘉永2年までには残る3町も復帰した。城下のプランは,前橋城が西の利根川と北の広瀬川を遠構えとする縄張りの下に構成され,南東部の防御に欠けるため,南側に厚く武家地を割く一方,特に南から東の城の出入口近くに,出丸状に寺院を配置した。南の柿ノ宮口に寿延寺,その東の石川口に竜海院,東方の柳原口に源英寺が置かれていた。さらに城下町の中心地帯の本町・連雀町・鍛冶町・田町・白銀町などには,まるで城を寺院で包むように多くの寺が配置されている。特に広瀬川右岸の低地帯の町内に寺院が多く,片貝町と本町裏の低い目立たない地帯に正幸寺・養行寺・隆興寺・東福寺が接して配置され,東南の天川方面に対しては松竹院,広瀬川右岸に沿っては妙安寺・了覚寺・大蓮寺・政淳寺・定心寺・成田寺が配置されて城下町を包み込んでいた。広い境内と大きな建造物をもつ寺院帯の内側に,武士の生活に必要な職人町が置かれていたことになる。その町々の配置は,古利根川右岸に沿って,古道にまず本町を定め,隣接する八幡宮門前の市の地に商人頭の住む連雀町を配した。連雀町は城の大手前にあたる。その周辺には武具製造関係職人の町である鍛冶町・白銀町があり,広瀬川以南の低地に紺屋町・板屋町・萱町があり,城下町は城の防御計画の中に位置づけて配置されてあった。防御と並んで城下町の繁栄の基礎となる交通面からの町計画もうかがえる。本町は沼田街道・江戸道の基点で,沼田藩主の参勤交代路でもあったため,本陣・問屋・旅籠屋が並び,町年寄も居住した。東西に延びる本町は大手門を南北に延びる連雀町の北に接し,そこが札の辻であった。札の辻から北へ桑町・横町,そこから左折して竪町を通り,広瀬川に架かる厩橋を渡ると細ケ沢町・広瀬河岸・向町に通じた。一方本町から東へは江戸道が走り,道沿いに片貝町・天川新町と続き,天川村松並木へと通じた。なお広瀬河岸は名前の通り河岸として機能し,広瀬川を下り,十六本堰から端知【はけ】川を通り福島で利根川に至った。中絶ののち,後年は広瀬川を下り伊勢崎河岸へ通じる舟運も盛んとなった(三河家文書)。前橋城下の大火災記録は酒井氏時代は,正徳5年2月29日片貝町から出火して40軒余を焼失している(重朗日記)。それ以外は不明。松平氏時代になると,「松平藩日記」にたびたび大火記録が見える。このうち主な大火は,まず寛延4年2月20日竪町から出火,町屋47軒と2寺を焼失,次いで宝暦6年5月13日百軒町から出火して町屋349軒を焼失。宝暦11年12月18日には田町から出火し町屋63軒を焼失。明和年間に入ると,大火が頻発し,まず元年には向町から出火,14町の町家613軒と9寺・2社を焼失。藩主が川越へ移城した同4年の4月1日柳町から出火して町家476軒と侍屋敷8軒・給人屋敷51軒,および5寺焼失。同7年3月7日板屋町出火,11町の町屋411軒と社寺15を焼失。同8年1月12日向町出火,12町の町家609軒と社寺11を焼失。同9年11月14日横山町出火,10町の町屋305軒と社寺5焼失。そして安永9年11月16日向町出火,15町の町屋482軒と3社寺焼失。文政3年1月22日町家130軒焼失などが記録されている。特に明和元年と同4年の大火は合わせて1,200軒余の町家を焼き,城下は著しく疲弊し,藩は広瀬河岸の徳蔵寺に火伏せの祈祷を命じ,焼失社寺の復興援助などに努めた。この相次ぐ大火は,利根川の洪水による破城とともに,松平氏の前橋から川越への移城を早める一因ともなった。川越移城前の町火消し組織は不明であるが,延宝6年には町ごとに火の番が置かれ,安永9年の大火後は町火消組織に1,030人が割り当てられている。文政6年11月の出火之節出人足并火消道具書上帳(松井家文書)によると,22町の火消出動総人員は1,025人,各町は纏以外に町ごとの割り当て道具が定められ,その集計は水溜19・ひしゃく59・水手桶78・水籠27・鳶口90・斧8・梯子23・かけや5・鋸3・大綱々などで,破壊消防用具が多く含まれている。このほか奉行所・会所などに伝令と警備にかけつける人員107人割当てもされていた。たび重なる大火と明和4年の移城により城主不在となった城下町は,郡奉行と小数の藩士が残るのみで,2,500人余の藩士とその家族の購買力を失い打撃を受けた。なお明治3年3月29日兵部省通達によると,前橋藩士は士族4,656(男2,315・女2,341),卒族5,506(男2,774・女2,732)であった。総町の家主・借家人口の変遷をみると,寛政2年は家主1,068・竈数1,155で人数4,207,文政13年は家主856・竈数990で人数3,952,天保12年は家主772・竈数925で人数3,601,嘉永7年は家主920・竈数1,148で人数4,980。借家は寛政2年には54軒・嘉永7年225軒であった(前橋市史5)。前橋の町の発展を支える本町の市も次第ににぎわいがなくなり,明和4年幕府領才川村から細ケ沢町にかけて新しく市が開かれ,在郷農民は勝手に青物を売り,寛政5年には糸市も本町以外に竪町・北代田町に散市が開かれるなど,幕府権力による市の統制が乱れてきた(松井文書・木島文書)。そこで,前橋町人は寛政年間頃から藩主の帰城を画策し,文化14年町の有志を募って帰城嘆願書を藩主松平斉典に提出した(時沢区有文書)。その後も数度画策があり,ようやく文久3年再築内願書が幕府に聞き届けられ,慶応3年再築が完了し,城主松平直克を川越から迎えた。このときに領内高100石につき5両の割当てで,計3,800両の高掛金,および町在の蚕積金など永上納1万3,000両,「小前精立候者」の才覚金5万2,465両,合計6万9,265両を藩は予定したが,実際には7万7,600両余が集まった。このとき,荒川久七700両・江原芳右衛門650両・勝山惣(宗)三郎と市村良助で1,200両など巨額の献金者があった。予定額を超えたのは,これら有力町人の才覚金が予想以上であったことによる。この有力商人の大部分は生糸仲買商で,本町・竪町の商人であった。当時前橋の生糸相場は,金1両につき,安政5年150匁・文久元年50匁・慶応3年27.5匁といい(前橋案内),4年目には3倍,10年目に5.4倍に値上りしていた。この生糸相場の活況で,前橋本町の市日はにぎわいを取り戻し,明治3年,藩はわが国最初の器械製糸の大渡製糸所を開くなど,前橋城下はいまだかつてない活況を呈した。この好況が城を再築した動きから,やがて県庁誘致の成功へと導いた。明治4年前橋県,群馬県を経て,同6年熊谷県,同9年群馬県に所属。同11年郡区町村編制法施行により,前橋町域は東群馬郡と広瀬川左岸の南勢多郡に分属。「郡村誌」によると,戸数2,574・人数1万678。同21年の「名称区域」では,萩村・国領村・一毛村・岩神村などの周辺の村落を加えて,戸数5,066・人口2万5,539。同22年前橋町の一部となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7284588 |