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丸山村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。山田郡のうち。はじめ館林藩領,寛永20年幕府領,正保元年館林藩領,天和2年幕府領と旗本石川・森川氏の相給,その後旗本森川・野々山・諏訪氏の3給。村高は,「寛文郷帳」で621石余うち田方365石余・畑方255石余,「元禄郷帳」「天保郷帳」「旧高旧領」いずれも631石余。当村は桐生道と足利道が交わる交通の要地で,慶長11年吉沢村の字村上から住民を移して宿駅を立てたといわれ,市も開かれた(山田郡誌)。同年の市場制札(青木家文書/太田市史史料編近世2)によると,市日は2・7の六斎市であった。このため丸山宿と記される場合が多い。市はその後中絶したようで,安永4年に従前の六斎市再興願いが出され,安政3年にも再興を決議したが実現しなかったようである(太田市史史料編近世2)。慶長の市場取立と同時に伝馬継立場を命じられ,幕末まで1村持切で勤めた。文化13年の送り先を見ると,北は桐生新町・大間々町,南は太田宿・小泉村,東は足利町・八木宿,西は伊勢崎町・木崎宿と広範囲に及ぶ。宿役が重く,正徳5年日光神忌の太田宿加助郷,明和2年150回神忌の下部合戦場加助郷(三分勤め)に際し,宿役との両立困難を訴え以後の助郷役免除を要請している。割当人馬が多い時は,隣の吉沢村ほか新田郡内の5か村から調達した。安永5年の日光社参の際には古河宿の加助郷を勤め,人足5人6分8厘,馬3疋7分9厘(青木家文書/太田市史史料編近世2)。用水は村の西部山麓の待堰新田堀と東部の矢場堰休泊堀から引水する。天保11年の村高軒別取調帳(同前/太田市史史料編近世1)によれば家数31。安政元年の家数人別等書上(同前)では家数40,人数147うち男75・女72,馬11,茶屋兼旅籠屋1,茶屋3。桐生新町の飛脚問屋十七屋(京屋)と島屋は合計月18回の定飛脚を出したので,幕末の桐生道は北関東のシルクロードの観を呈した(桐生市史)。鎮守は加茂神社。真言宗清光寺は慶長11年吉沢村から移転され,宝暦3年版の東上州新田秩父三十四番札所の第33番(柳家文書/太田市史史料編近世2)。浄土宗大円寺は明暦3年に創建。幕末の改革組合村高帳によれば,太田町寄場組合に属し,高631石余,家数33。明治4年館林県,栃木県を経て,同9年群馬県に所属。同22年毛里田村の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7284635