矢田村(近世)

江戸期~明治22年の村名。多胡郡のうち。はじめ吉井藩領,のち幕府領を経て,延宝2年旗本松平氏領,宝永6年から吉井藩領となる。天正18年徳川家康から吉井領を与えられた菅沼氏は,吉井の城下建設に際し,周辺からの移住策をとったが,その過半は当村からという(吉井町誌)。また延宝2年上野【こうずけ】・上総【かずさ】両国内で7,000石を与えられた関白鷹司信房の子信平は,はじめその陣屋を木部村に置いたが,同7年鎌倉街道・倉賀野街道などが通る当村に移した。そして貞享3年一度木部に陣屋を戻すが,元禄元年から再び当村に置いた。当村の矢田川沿いの矢田砦に陣屋を構えた鷹司松平氏は宝永6年加増をうけて1万石の大名となり,宝暦2年に至って吉井へ陣屋を動かすまで,鷹司松平領の政治・文化の中心地となっていた。村高は,「寛文郷帳」で537石余うち田方193石余・畑方343石余,「元禄郷帳」「天保郷帳」「旧高旧領」ともに同高。文政年間の吉井宿組合村々書上帳では,矢田村松平左兵衛督領分高537石余のうち9石余が山崩川欠となっており,家数27・人数135(男75・女60),馬3とある(同前)。幕末の改革組合村高帳では,吉井宿寄場組合に属し,高537石余,家数25。明治元年岩鼻県,同4年群馬県を経て,同6年熊谷県,同9年群馬県に所属。常福院は明治3年焼失。また天久沢の観音堂は,多胡郡三十三観音の第23番札所であった。同22年吉井町の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7284890 |