100辞書・辞典一括検索

JLogos

22

八幡村(近代)


 明治22年~昭和30年の碓氷郡の自治体名。川間村が改称して成立。同村の8大字を継承。村名は,大字八幡に鎮座する八幡宮にちなむ(八幡小学校の歩み)。明治22年の戸数509・人口2,636。同24年の戸数475,人口は男1,395・女1,326,学校1・水車場11。明治23年北部連合村の町屋尋常小学校を南部連合村の藤塚尋常小学校に合併,町屋尋常小学校は分教場として存続したが,同27年廃止。明治23年藤塚尋常小学校を八幡尋常小学校と改称,同時に碓氷第一高等小学校第8分教場(藤塚高等小学校)が本校から独立,八幡高等小学校となる。同25年には尋常小学校と高等小学校が合併し,八幡尋常高等小学校となる。なお藤塚の沼賀茂一郎から明治24年田地934坪の寄付があり,村では同所に新校舎を建設,同26年新校舎を完成。明治42年度の学童数は尋常科男202・女186,高等科男44・女22,学級数10。同43年大洪水に見舞われ甚大な被害をこうむった。被害状況は,死亡・行方不明13人,流失家屋44戸・家屋倒壊半壊95戸,財産を失ったもの5戸26人に達した(碓氷郡志)。同年剣崎浄水場が完工。大正7年小学校に八幡実業補習学校を併設,同10年の生徒数男118・女40・職員数11。昭和10年八幡青年学校と改称。同13年地内の中ほどを東西に走る信越本線に群馬八幡駅開設。これに伴い藤塚少林山達磨寺前から駅前を通り,剣崎から室田街道へ抜ける県道もつくられ,村の交通輸送に多大の便をもたらした。群馬八幡駅の開設により,村の主要官公署はこの駅前に集中して設置される傾向となり,駅前の発展は著しく,昭和3年に役場,同5年駐在所,同8年郵便局が設置され民家も建ちはじめた。昭和6年南部を東西に走る中山道に高崎満島自動車が経営するバスが運行。同10年大雨により烏川と碓氷川の両川が満水大洪水となり,床上浸水120戸・床下浸水80戸,罹災者約1,300人を出した。同16年八幡村尋常高等小学校を八幡村国民学校と改称。同19年豊岡村青年学校と合併,校舎を駅前に移して豊幡青年学校と改称する。同22年八幡小学校と改称,同年小学校の校舎の一部を借用して八幡村立八幡中学校が発足する。同24年中学校の新校舎が完工。字下鼻高にある黄檗宗少林山達磨寺は養蚕上作の効験があるとして近在近郷の農民の崇敬が厚く,毎年1月6日の夕刻から7日にかけて行われる例大祭には数万の参拝者があり,関東の三大祭に数えられている。この時売られる張り紙ダルマは「目無しダルマ」といわれ全国的にも知られている。昭和29年の村況は,戸数855・人口4,878,農業戸数506・同人口3,323で,農業に従事するものが全人口の68%以上を占め,米・麦は少なく丘陵を利用して桑・桃・梨・梅などの果実の栽培が盛んである。このほか酪農・畜産・養鶏業も盛ん。公的機関として小学校・中学校・保育所・公民館・郵便局・駐在所・青果市場が各1,消防団・青年団・婦人会・遺族会・母子会などの団体がある(八幡村誌)。昭和30年高崎市の一部となり,8大字は同市の大字に継承。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7284960