横沢(近代)

明治22年~現在の大字名。はじめ大胡村,明治32年からは大胡町の大字。明治24年の戸数49,人口は男122・女130,水車場2。同28年区長制により第4区。明治43年の戸数43・人口364。水田は二毛作田の割合が65.8%。用水については寺沢川によるもののほか,江戸末期の築造と思われる芳山沼による。桑園面積が広く,麦の安価からくる麦作の衰退に対し,養蚕は現金収入源として重要な役割を果たした。霜・雹害が町内の他地区に比べて少ないため,大正9年養蚕組合を設立27戸が加入,同15年飼育戸数24・収繭量1貫700匁余・価格1万2,500円余であった。昭和23年養蚕農協が設立したが同36年県指令で解散,同40年農事組合法人稚蚕共同組合として横沢・西原・横沢(小平)3組合を設立,計63戸加入,共同飼育所が設立された。しかし,以後繭価の不安定,人手不足などで養蚕は漸減している。地区共有林は字芝山に390m[sup]2[/sup]余,字一本峰に4,740m[sup]2[/sup]余。昭和26年大胡町森林組合は宮城村森林組合に合併されたが,同48年赤城山南面森林組合となった。横沢の組合員は18人。「県商工名鑑」によると,昭和41年には食料品店1軒である。南部を通った米野道が昭和34年に主要地方道渋川大胡線として認定・整備されるとともに道路の改修が進み,地区内から前橋などに通勤する者が多くなった。バスは昭和45年大胡~滝窪間および県庁~滝窪間の上電バスと大胡~渋川間の群馬中央バスが運行していた。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7285006 |





