100辞書・辞典一括検索

JLogos

27

吉井村(近世)


 江戸期~明治15年の村名。多胡郡のうち。はじめ吉井藩領,のち幕府領から幕府領と旗本鷹司松平氏・松平氏・川田氏・中沢氏・岩村氏などの相給を経て,寛延元年から吉井藩領となる。天正18年徳川家康から吉井領を与えられた菅沼氏は,当地へ築城し,矢田村などから住民を移住させて町割りを行っている。その後,矢田村に陣屋を構えて大名に列した鷹司松平氏は,宝暦2年当村へ陣屋を移し,当村は吉井藩領の中心地となった。また当村は吉井藩主だけでなく七日市藩主や小幡藩主の公用荷物などの継立て地としても機能し,吉井宿とも呼ばれた。また史料によっては吉井町とも見える。村高は,「寛文郷帳」で490石余うち田方123石余・畑方366石余,「元禄郷帳」606石余,「天保郷帳」も同高,「旧高旧領」580石余。文政年間の吉井宿組合村々書上帳によれば,当村は「吉井宿」と見え,27か村組合の寄場となっており,高580石余,松平左兵衛督(吉井藩主)領分,家数132・人数533(男287・女246),ほかに出家2・山伏2・借家人164(男86・女78),馬9,農間稼は小間物小売・煙草売買・酒造・茶屋・旅籠屋など,2・8の日に六斎市が立ち近在から絹・太織類を持出して売買され,また旅籠屋4軒・茶屋7軒があるが飯盛女などは一切置いていないと見える(吉井町誌)。なお幕末の改革組合村高帳でも,当村ほか26か村組合の寄場村となっており,高582石余,家数59とある。当村の北を流れる鏑川は川魚漁のみならず,河川流通にも利用された。延宝6年吉井町は舟荷が陸運を圧迫するとして鏑川通船停止の訴状を出したが(吉井町郷土資料館蔵文書/県史資料編9),多胡旧記(橳島家文書/同前)によれば,この船公事,居合窪の舟通しについての訴えは敗訴となったが,川水が少なく,舟通らずとある。なお多胡旧記によれば,享保2年8月前代未聞の大洪水に襲われ,居合窪は浸水し,また延享4年には疫病が流行して町内の過半は病み,30人余が死亡とある。一方,陸路の流通をめぐっても争いが生じている。文化3年2月多胡郡・甘楽【かんら】郡の48か村は煙草商荷物継立路について吉井宿問屋三右衛門を訴えている(田村家文書/同前)。この出入りは,同年6月に和解して内済証文が出されている(大沢家文書/同前)。天保7年吉井宿寄場組合は議定を定め,酒造その他渡世のことについて破約の場合の過料などを取りきめている(増田家文書/同前)。寺社は,慶長年間菅沼氏が菩提所として玄太寺と守護神として八幡宮を創建。また鷹司松平氏は春日神社を寛政3年に勧請している(島高堅自記)。なお多胡旧記によれば,宝暦6年玄太寺は菅沼定利の墓を再修補,現存している。明和6年の木版刷り「多胡郡内三十三番札所詠歌記」(県史資料編9)に30番光源寺馬頭観世音,31番玄太寺厄除観世音がある。なお光源寺は,享保11年旗本川田一学が創建,明治4年廃寺となった。紀州藩御用金貸付所を開設し,西上州の金融に力を持った堀越文右衛門,横浜貿易で活躍した上州貿易商穀屋清左衛門,全国に吉井燧金の名を挙げた鍛冶職中野屋孫三郎などは当地の出身。明治2年吉井藩は他に先駆けて版籍を奉還したため,当村は同年岩鼻県の所轄を経て,明治4年群馬県,明治6年熊谷県,同9年群馬県に所属。明治5年吉井郵便局開設。学校に吉井小学校がある。同15年吉井町の一部となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7285024