吉井藩(近世)

江戸期の藩名多胡郡吉井に居所を構えた小藩天正18年菅沼定利が多胡郡一円24か村,緑野【みとの】郡内7か村の2郡内31か村・2万石を領有し,吉井城に居をすえた菅沼氏は定利・忠政と2代・20年在封した忠政は慶長15年美濃国加納6万石へ移封して,吉井城は廃城になり,領域はその後70余年間旗本領・幕府領・飛地領などの錯綜地になった天和2年大番頭堀田正休が廩米1万俵を改めて,多胡・緑野・甘楽【かんら】,武蔵国埼玉の2国4郡内で1万石に封ぜられ,吉井に入部したが,元禄11年在封10余年で近江国宮川1万石へ移封し,領域は再び10余年間旗本領・幕府領・飛地領などの錯綜地になった宝永6年碓氷【うすい】・群馬・緑野・多胡,上総国長柄・夷隅の2国6郡内で7,000石を知行する松平(鷹司)信清が上野【こうずけ】国内で3,000石を加増されて1万石となり,矢田に陣屋を構えて入居した家格が高く軍役免除の特権を与えられた松平氏は信清から信友・信有・信明・信成・信充・信敬・信任・信発・信謹と10代・160年在封して明治維新を迎えた信友は宝暦年間吉井に東西120間・南北80間の規模をもつ陣屋を造営して居を移し,信発は元治元年これを吉井陣屋と改称し,信謹は慶応4年に松平を吉井と改姓した藩領は安永2年では緑野郡内10か村,多胡郡内6か村,群馬郡内7か村,那波郡内1か村,勢多郡内1か村,甘楽郡内1か村,上総国長柄郡内3か村,夷隅郡内2か村の2国8郡内31か村・1万1,494石余であった慶応年間の家臣団は江戸詰88人・国元詰16人の計104人国元では,代官2人・手代以下14人が吉井陣屋に詰めて藩領の統治に当たった藩財政をみると,文政年間の収納は金3,453両余,文政5年の藩債が金1万354両であった吉井は中山道脇往還下仁田街道の宿駅として栄え,文政8年絹市もできたが,これは間もなく衰退した当藩は天明元年の絹糸運上騒動の打毀が波及,文政11年の御荷鉾山材木不正売却を訴える江戸出訴事件,元治元年西上を目ざす武田耕雲斎の率いる水戸浪士の吉井宿通過,慶応4年上野西部を襲った世直し一揆勢の侵入などにほんろうされた同年東山道総督府下に入り,旧幕府陸軍奉行兼勘定奉行小栗忠順の追討,会津藩討伐のため三国峠・戸倉両地方への出兵などに奔走した明治2年12月信謹の吉井藩知事辞任によって岩鼻県に編入された

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7285028 |