春日部郷(中世)

鎌倉期から見える郷名。鎌倉期から南北朝期にかけて春日部氏の支配。「吾妻鏡」によれば,文治元年春日部実高が壇ノ浦の戦いに従い,元久2年正月の垸飯の際には実平が馬1匹を献上している。さらに宝治元年実景の時,宝治の乱で三浦泰村に味方して敗れ,泰村などとともに自害している。その孫の重行は元弘3年新田義貞の挙兵に従い,鎌倉を攻め功を挙げ,延元元年足利尊氏が建武政権に反抗した折は南朝に従って奮戦し,延元元年8月30日の後醍醐天皇綸旨により上総【かずさ】国山辺南郡と下総【しもうさ】国下河辺荘内春日部郷の地頭職が与えられている(武文)が,同年名和長年等とともに足利方に敗れ討死にしている。このほか,春日部の名は,室町期の成立と思われる市場之祭文に,「下総州春日部郷市祭成之」とある(武文)ほか,嘉吉3年2月30日には山村弾正左衛門宛ての上杉氏の奉行長尾景秀らの奉書に春日部の地名が出てくる(武文)。戦国期には小田原北条氏の勢力下にあり,元亀4年2月4日には北条氏繁より関根図書助宛てに「糟ケ辺」での合戦の功を賞して感状が与えられている。さらに天正17年3月24日には岩槻【いわつき】城主太田氏房より糟壁の諸役免許の印判状が出されており,当時春日部が岩槻城の御領所だったことがわかる(武文)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7286321 |