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毛呂郷(中世)


 鎌倉期から見える郷名。入西【につさい】郡のうち。鎌倉幕府の有力郷家人藤原姓毛呂氏の本貫地。「毛呂氏系図」によると,太宰権帥季仲の子季清が初めて毛呂郷に住し,毛呂氏を名のったとある。毛呂氏の庶流である大谷木【おおやぎ】村の旧家,大谷木与兵衛家に伝わる記録には,「豊後守季光は源頼朝に仕へて,毛呂・平山・小台・舞窪・北浅羽・薗部・鎌方・窪田の八ケ所を領す」とある(姓氏家系大辞典)。「吾妻鏡」には毛呂冠者季光(豊後守季光)・毛呂太郎季綱・毛呂五郎入道蓮光らが見える。文明7年10月18日在銘の毛呂中山薬師如来懸仏(上阿諏訪中山薬師堂)の銘文に,「奉懸毛呂郷中山薬師如来」とある(銘記集)。同17年2月25日の旦那売券では,「武蔵国もろ・おこせ」一円の熊野権現旦那職が南弥三郎から城信房へ15年間5貫文で売進されている(米良文書)。大永4年頃より小田原北条氏の武蔵経略が本格化し,毛呂氏らは北条方に属した。大永4年4月10日の小田原北条氏印判状(伝馬手形)には,「玉縄・小田原より,いしとともろへわうふく(往復)」と見え,小田原城(神奈川県小田原市)・玉縄城(同鎌倉市)と武蔵の石戸城(北本市)・松山城(吉見町)とを連絡する主要交通路であった(関山文書)。同年11月23日の越後(新潟)上杉家の家老長尾為景に宛てた北条氏綱書状には,氏綱が10月6日に関東管領山内上杉憲房と上州衆(群馬県)の立て籠る毛呂要害を攻めたと記されている。永禄11年2月の正覚院円海書状(中院文書)には,「毛呂之郷」と見える。天正16年正月5日の北条氏照印判状(出雲伊波比神社文書)では,豊臣秀吉の小田原攻めに備えて鉄砲玉を鋳造するために茂呂大明神(総鎮守出雲伊波比神社)に梵鐘の供出を命じている(武文)。出雲伊波比神社所蔵の寛永12年正月20日の「大明神之宮之入目之覚」にも,「武州入西之郡毛呂之郷」と見える。毛呂郷の範囲は,近世前期の毛呂村に相当し,現在の毛呂山町の中央部毛呂地区一帯と推定される。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7290682