木更津村(近世)

江戸期~明治22年の村名。望陀郡のうち。はじめ幕府領,のち「上総国村高帳」では幕府・清水家・館山藩の相給,「旧高旧領」では前橋藩領。なお「旧高旧領」には八幡神社領3石・選択寺除地14石余など計53石余の寺社除地が記載されている。村高は,文禄3年「石高覚帳」1,131石,「元禄郷帳」1,124石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに1,199石余。「上総国村高帳」では家数940。慶長19年大坂の陣に際し,幕府水軍に寄与した水夫の子孫が,幕府領年貢米の輸送権を獲得したという。以後木更津は港町として発展した。安房上総2国への渡船営業権をも獲得し,江戸との間の海運に従事した木更津船が誕生したという。同船の江戸での発着所は木更津河岸と呼ばれた(木更津船由緒書)。この木更津船の就航は,当村を江戸文化流入の窓口とし,当村は周辺地域に文化的影響力をもった。文化人の訪問も多く,特に伊能忠敬が享和元年,小林一茶が同3年,安藤広重が天保15年・嘉永5年にそれぞれ来訪した。当村出身の落語家木更津亭柳勢の創作である木更津甚句は,安政年間に江戸で流行したという。嘉永6年初演の歌舞伎「与話情浮名横櫛」は通称「切られ与三」といわれ,当村の地名を全国に広めた。幕末には鈴木梅若・嶺田楓江などが塾を開き,当村および周辺地域の教育に大きな足跡を残した。慶応4年4月に江戸を脱出した幕臣の一部は,木更津に上陸し徳川義軍府と名乗り,木更津を本営とした。明治初年には中条卓治が共成学舎を開設した(県教育史)。明治6年千葉県に所属。神社は八剣八幡神社・厳島神社・稲荷神社など4社。寺院は浄土宗選択寺・東岸寺,真言宗持宝院・光徳寺,日蓮宗光明寺,浄土真宗証誠寺など11か寺。明治6年光明寺・証誠寺に小学校設立。同年木更津警察署設置。同18年の反別150町3反余,荷舟漁船ともに208(上総国町村誌)。明治22年木更津町の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7293097 |